ロシアの語源「ルーシ」(ノルマン人の一派)
7C
西突厥から独立し、カスピ海北西部ヴォルガ川ほとりハザル建国
→トルコ系国家、東ローマ皇帝と婚姻関係があり、ユダヤ教受入れ
ハザルをはじめ、トルコ系、モンゴル系の集団は通商を重んじていた。
9C
ノルマン人の移動の中で、現在のロシア北西部に。スカンディナヴィア半島から南下
ノブゴロド国を建国(リューリック)
9〜13C
キエフ公国(現ウクライナ)
988年
キエフ大公ウラディミル1世
ギリシア正教に改宗
公認の宗教として取り入れ
東スラブへ影響、西スラブはカトリック
黒海にも進出しビザンツ帝国と交易を積極的に行った
ビザンツ文化を受容「ビザンツ化」推進
ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹と結婚
11世紀には貴族の大土地所有と農民の農奴化が進んだ
13C
キプチャック=ハン国(タタールのくびき)
1243 チンギスハンの孫バトゥが建国(都サライ)
イスラム教受入
1240~1480年(240年間)タタールのくびきの時代
ロシアの封建諸侯はその支配下にあった
徴税や兵力供給などの間接支配にとどまり教会も弾圧されずむしろ支配に利用された
モンゴルの支配に服したロシアの各地の諸侯たちはモンゴル勢が本拠とするヴォルガ川下流のサライを度々訪れ忠誠
その中のモスクワ大公が次第に有力となった。
1480年イヴァン3世の時に独立を達成
16世紀後半にはイヴァン4世がツァーリを称し、農奴制を基盤としたツァーリズム体制をつくりあげた。
モスクワ大公国のイヴァン4世は、大貴族の力を弱体化させて専制政治を推し進め、バルト海に進出を試みたが、支配権を確立するには至らなかった。バルト海はピョートル1世
ミハイル=ロマノフを初代の皇帝とするロマノフ朝ではピョートル1世がオスマン帝国と戦ってアゾフ海に進出したが後に敗れて南下政策を断念を余儀なくされる
ピョートル1世(在位1682~1725)は17世紀末にツァーリとなり、自らヨーロッパ各国の視察を行い、積極的な西欧化政策を推進した。特に西欧の技術者を多数招聘し、産業の近代化に力を入れた。ロシアが西欧諸国に互していくためには、バルト海に進出する必要があると考え、バルト海沿岸に面して新都のペテルブルクを建設し1712年に遷都した。その間にバルト海の覇権をめぐって1700年からスウェーデンとの北方戦争を戦い、一時は敗北を喫したがそれを機に軍備を整え、ポルタヴァの戦いに勝利して1721年、ニスタットの和約で有利な講和を結んだ。その結果、ロシアは「バルト海の覇者」と言われるようになった。 東方ではシベリア進出を推し進め、1689年に清の康煕帝との間でネルチンスク条約を締結してた。これは清に有利なものであったが、初めてアジアにおける国境線の画定であった。またベーリングを派遣してカムチャツカ、アラスカ方面を探検させ、ロシアの東方進出の足がかりを作った。南方ではオスマン帝国からアゾフを獲得し、黒海方面への突破口としいわゆる南下政策を開始した。このピョートル大帝の時が実質的なロシアの出発点であり、後のロシア帝国の繁栄、それを領土的には継承したソ連邦、そして現在のロシア連邦のもととなったといえる。「ルーシ」に代わって「ロシア」が正式な国号となるのもこの時である。
エカチェリーナ2世
エカチェリーナ2世(在位1762~1796)は啓蒙専制君主として改革や文化の保護
ポーランド分割に加わるなどで領土を拡大
アメリカの独立戦争に対しては武装中立同盟を提唱してその独立を助けた。この女王の時代はフランス革命、イギリスの産業革命が展開した時期であって、ロシアでも近代化を急がなければならない状況であったが、革命の勃発は避けねばならず、エカチェリーナはもっぱら上からの改革、つまり啓蒙専制君主としての改革を進めることとなった。外交面では1768年にオスマン帝国とのロシア=トルコ戦争(第1次)を開始し、1783年にクリム=ハン国併合、 した。また1772年に第1回ポーランド分割を主導して、領土の拡張を図った。1773年に大規模な農民反乱であるプガチョフの反乱が勃発したが、それを鎮圧した後はさらに反動的になる。農奴制強化
アレクサンドル1世(在位1801~25年)
ナポレオンのモスクワ遠征を迎え撃ったロシアは大きな危機に陥ったが、粘り強い抵抗によって撃退に成功、アレクサンドル1世の評価は高まった。続いてアレクサンドル1世はウィーン会議を主催してナポレオン戦争後のヨーロッパ国際政治で活躍し、その優位な立場を利用してポーランド立憲王国の実質的な支配を獲得した。このウィーン体制の時期にはロシア・ロマノフ朝のツァーリズムは保守反動勢力の中心として、神聖同盟の盟主となり、ヨーロッパの民族運動、自由主義運動を弾圧して「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれた。同時にイギリスが提唱した四国同盟にも加盟し、フランス包囲網の核となった。しかし、フランス革命とナポレオンの持ち込んだ自由主義と国民国家の概念はヨーロッパの東方にも波及して行き、ロシアもその影響を受けるようになった。この時期はロシアの膨張と国内矛盾が進行していた。
デカブリストの反乱 自由主義、民族主義は貴族層にも影響を与えた。ナポレオン軍を追ってパリに入り、パリの自由な空気を知った青年将校を中心とした貴族の一部は1825年12月に、アレクサンドル1世が急逝しニコライ1世が慌ただしく即位した混乱に乗じて専制政治(ツァーリズム)を倒そうと反乱を起こした。このデカブリストの反乱は、民衆的な広がりがなく、鎮圧されてしまったが、ロシアの革命運動の出発点となった。
ニコライ1世(1825~55)
1831 第一次エジプトトルコ戦争
1833 ウンキャルスケレッシ条約
→ロシア以外のボスフォラス、ダーダネルス海峡の運航禁止
1839 第二次エジプトトルコ戦争
1841 五国海峡条約
→外国軍艦のボスフォラス、ダーダネルス海峡の運航禁止
★巧妙なイギリス外交のもとに両海峡の利権を失った
南下政策
1853 クリミア戦争
クリミア戦争で西欧諸国と戦ったが敗れる。この敗北はツァーリズムの後進性を明らかにし、政治・社会の改革の必要に迫られることとなった。
ロシア対オスマン帝国・イギリス・フランス・サルデーニャ王国
★ロシアはイギリスと直接対決することに
1856年 パリ条約
・オスマン帝国(トルコ)の領土尊重、
・1841年のダーダネルス=ボスフォラス海峡閉鎖と黒海中立化の確認
・ドナウ川自由航行の原則と航行国際監視委員会の設置
・ロシアはベッサラビアをモルダヴィアに譲る
・モルダヴィア・ワラキア(後のルーマニア)、セルビアの自治の承認他
アレクサンドル2世(1855~1881)
1861年 農奴解放令の発布の改革を実施
←クリミア戦争の結果自国の後進性を自覚
1870年〜80年 ナロードニキ運動などを弾圧
ゲルチェン(ナロードニキの先駆)
→ニヒリズム・アナーキズム→テロリズム
1877 露土戦争
国力の回復を図り、露土戦争など南下政策を再開
強攻策は東方問題として列強との対立を強める
1878 サンステファノ条約
イギリス、オーストリア反発
1881年 アレクサンドル2世暗殺される
アレクサンドル3世(1881~1894)
国内の少数民族、ポーランド、バルト、中央アジアに言語
はじめロシア化を強制。
中央アジア(ウズベク人シャイバニ朝→ブハラ=ハン国)
1891 露仏同盟 フランスからの資本流入
フランスとも秘密軍事同盟
ニコライ2世(1894~1917)
1898 ロシア社会民主労働党結成
1901 社会革命党(エスエル)結成
1903 ロシア社会民主労働党結成分裂
ボリシェビキ(多数派)
レーニンの指導
メンシェビキ(少数派)
マルトフの指導
1905 立憲民主党(カデット)
1905 日露戦争
ロシア帝国のツァーリズム政治体制は、国内の矛盾を深刻化
シベリア鉄道の敷設などのアジア方面への勢力拡大でそれを解消ねらい
ロシア(ドイツ、フランス)VS日英同盟(アメリカ)
戦争の経過
1904年2月に開戦、ロシア軍の旅順要塞を占領
1905年
3月の奉天会戦で大勝
5月の日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊敗退
→血の日曜日事件を機に第1次ロシア革命が起こっていたロシアは戦争継続が困難
9月、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介で、ポーツマス条約を締結
1905年8月アメリカ合衆国のポーツマスで、日本の小村寿太郎(外相)とロシアのウィッテ(前蔵相)
→日本は樺太の割譲など多くの要求を突きつけたが、巧みな世論操作と再戦を辞さないヴィッテの巧みな交渉によって、妥協せざるを得なかった。日本の世論も不満が強く、代表団が帰国すると民衆が暴動を起こし、日比谷焼打ち事件が起こった。
ウィッテは帰国後、初代首相に任命され第1次ロシア革命の政府側の中心人物として十月宣言を起草
1.日本の韓国(大韓帝国)に対する保護権を認める。
→韓国(大韓帝国)に対しては、日露戦争中の第1次日韓協約に続いて1906年に第2次日韓協約を締結して、韓国保護国化
2.日本に遼東半島南部の租借権を譲渡
→遼東半島南部は旅順・大連を含み、日本では関東州と称した。1906年、日本はこの租借地の統治のため関東都督府を置いた。1915年に租借権を99カ年に延長、同時に関東都督府を、行政担当の関東庁と、軍事担当の関東軍に分離
3.日本の南満州の鉄道の利権を認める。
→南満州の鉄道の利権とは東清鉄道の支線、長春から南に下り旅順口
1906年、この鉄道を運用する南満州鉄道株式会社が設立された。アメリカは満州の鉄道利権への参入を要求し、満州鉄道中立化を要求、さらに中国側には満鉄並行線の建設などがはじまり、日米・日中対立の焦点となっていく
4.南樺太(北緯50度以南の樺太=サハリン)を日本に割譲
→樺太(ロシア名ではサハリン)は、1875年の樺太千島交換条約でロシア領となっていた。ここで日本領とされた北緯50°以南の南樺太は第二次世界大戦での日本敗戦まで続く。
5.沿海州・カムチャッカ半島沿岸の漁業権を日本に譲渡
→沿海州・カムチャッカ半島沿岸の漁業権については、1907年に日露漁業協約を締結し、細目を定めた。
→ポーツマス条約は1917年に第2次ロシア革命でロマノフ朝を倒したソヴィエト政権は一方的に破棄した。日本は1918年から革命に干渉してシベリア出兵をおこなった。そのとき、1920年にニコライエフスク事件で日本人が虐殺されたことを口実に、日本軍は北樺太を占領した。1922年にシベリアから撤兵した後も占領を続けたが、1925年に日ソ基本条約を締結してソ連を承認したことに伴って撤退した。同時にソ連もポーツマス条約の法的な効力を認めた。
日本の勝利のアジア・ヨーロッパに与えた影響
日露戦争における日本の勝利は、ヨーロッパ諸国の経済支配を受けていたトルコ、イランなどアジア諸国に影響
1906年におけるイラン立憲革命
1908年のトルコの青年トルコの運動
第1次大戦後のムスタファ=ケマルのトルコ革命
フランス植民地支配下のベトナムではファン=ボイ=チャウのドンズー運動
1905 第1次ロシア革命
旅順陥落の直後にペテルブルクで労働者の請願行動を軍隊が弾圧した血の日曜日事件が起こり、そこでの民衆虐殺はツァーリズムに対する幻想を完全に払拭
血の日曜日事件
→ペテルブルクの市民・労働者に対して軍と警察が発砲
戦艦ポチョムキンの反乱
国会(ドゥーマ)開設の告示 ウィッテ
10月勅令(国会開設、普通選挙、自由権保障)
皇帝は国会の開設などを約束したが、体勢を立て直すと革命を弾圧して専制政治を復活
首相ストルイピン 1906
ミールの解体
バルカン方面への進出を企てた(意識を外へそらす)
バルカンではドイツ・オーストリアとの対立を深めて、危機はさらに深まっていった。
バルカン問題とロシア
パン=スラヴ主義を進めようとするロシア
オーストリアはパン=ゲルマン主義(ドイツもそれを支援)
1907 英露協商
イギリスとの提携
1907 日露協約
満州の利権を分割
1914 第一次世界大戦
VS 独・伊・墺 三国同盟
6月 サライェヴォ事件
オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告
8月 タンネンベルクの戦い
ドイツの東部戦線での戦いではで大敗
ツァーリ政府の無能が明確になる。戦争は長期化する中で、さらに民衆生活を圧迫し、ロシア社会の矛盾を深くした
1917年 第2次ロシア革命
ペテルブルクの暴動をきっかけ
二月革命
ロマノフ朝の専制君主制が倒されてブルジョア主導の臨時政府が成立
首相リヴォフ(カデット)
一方で、革命派は労働者と兵士のソヴィエトを組織し、ロシアは二重権力の状況
四月テーゼ
4月にレーニンが亡命地のスイスから封印列車で帰国
「すべての権力をソヴィエトに」と主張
七月暴動
第1回の全ロシア=ソヴィエト会議
エスエルとメンシェヴィキが多数を占め、戦争継続を維持する臨時政府を支持
ボリシェヴィキとの対立
7月、ボリシェヴィキが労働者の臨時政府反対デモ
ケレンスキー内閣
リヴォフ首相辞任後に臨時政府の首相になった
ケレンスキー内閣(社会革命党)は武力を行使してボリシェヴィキを弾圧
レーニン フィンランドに亡命
コルニーロフの反乱
ボリシェヴィキを抑えたケレンスキー内閣であったが、今度は右派のコルニーロフ将軍が帝政復活をめざし反革命の反乱。臨時政府側には反乱を鎮圧する力が無く、ボリシェヴィキの力を借り、ようやくコルニーロフの反乱を鎮圧
ボリシェヴィキの発言力は増大
レーニンも帰国して主導権を復活
レーニン
十月革命
レーニンに指導されたボリシェヴィキは一挙に権力奪取を目指して武装蜂起
臨時政府を倒し、ケレンスキーは女装して国外に逃亡
十月革命(十一月革命)に成功
第2回全ロシア=ソヴィエト会議を開催
ソヴィエトがすべての権力を掌握することを宣言
「平和についての布告」で交戦国すべてに即時講和を呼びかけ
「土地についての布告」で土地公有化の実施を宣言
世界最初の労働者階級が権力を握る社会主義政権が誕生
ボリシェヴィキ独裁の樹立
1918年1月、憲法制定議会が招集されたが、ボリシェヴィキはそこでは多数を占めることができなかった。議会制民主主義をブルジョワ権力の擬制であるとしたレーニンは実力で憲法制定議会を解散させ、ソヴィエトを最高機関とする労働者・兵士の政権を樹立し、ボリシェヴィキ独裁(プロレタリア独裁)体制を作り上げた。
1921 マルトフはドイツへ亡命
ブレスト=リトフスク条約での講和
1918年3月、ボリシェヴィキ独裁政権は、まず直面する課題である世界大戦でのドイツとの講和をブレスト=リトフスク条約で実現した。ロシアは大きな領土的譲歩を強いられ、また内部にもエスエル左派など講和に反対する勢力も強かったが、最終的にレーニンは講和に踏み切った。
こうして国内の革命遂行に集中できる状況を作り出し、国内の封建的な社会関係の一掃に乗り出した。
同年3月にボリシェヴィキは「ロシア共産党」と改称
首都モスクワ
7月には憲法を制定してロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国を正式に発足
内戦と干渉軍
反革命勢力は各地に反革命政権を樹立して内戦を仕掛けてきた。
主な反革命政権には南ロシアでのデキーニン軍、シベリアでのコルチャーク軍、バルト沿岸でのユデーニッチ軍など
→イギリスなどの諸国の援助を受けて革命政権打倒の軍事行動を展開
白軍といわれた反革命軍との戦いのために、主としてトロツキーが中心となって赤軍といわれる革命軍が編成され、激しい内戦が戦われた。
資本主義(帝国主義)国のイギリス、フランス、アメリカ、日本などは直接的に対ソ干渉中国も参戦
1918年8月 シベリア出兵
チェコ兵捕虜の救出を口実とした日本・アメリカを主力
反革命軍と結びつき、赤軍・パルチザンと戦った。
1920年4月、ポーランドとの間で領土問題が発生し、ソヴィエト=ポーランド戦争が勃発し、ロシアはその領土の一部を放棄した。
戦時共産主義
1918年から1921年
レーニンの指導するソヴィエト=ロシアのボリシェヴィキ政権
強制的な食料配給制によって反革命軍や外国の干渉軍との戦いから革命を防衛
最高会議選挙、政治犯 ※報道の自由は認められていない
農民は強く反発し、反革命軍と結びつくこともあった
ボリシェヴィキ政権はチェカという取締機関を設けて、それらの動きを反革命として押さえ込んだ。
コミンテルンの創設
1919年3月、激しい内戦と干渉戦争との戦いを続けながら、レーニンは革命成功の道は、ロシア以外でも労働者が蜂起し、革命を起こすことにあると考え、コミンテルンを設け、国際共産主義運動を追求しようとした。
→ドイツやハンガリーでの革命は次々と失敗
レーニンも方針の転換に迫られる
ネップへの転換
戦時共産主義の矛盾は1921年3月のクロンシュタット反乱として現れた。レーニンは一連の反革命戦争、干渉戦争に勝利した後に大きな路線転換を決断し、新経済政策(ネップ)を打ち出した。
一定程度の資本主義経済への復帰を認めるもので、それによって経済体制を立て直そうとしたものであった。そのようなボリシェヴィキ政権の変化は西欧との関係を回復させ、1921年にはまず英ソ通商協定が成立、さらに22年にはラパロ条約でドイツとの国交を回復し、国際的な認知を受けることとなった。
スターリン
ソ連邦の成立
1922年12月にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦、ソ連)が成立
1917年の十月革命によって成立した新しい国家は、1922年の「ソヴィエト連邦」の成立までは一般に「ソヴィエト=ロシア(あるいはソヴィエト共和国)」という。
ソヴィエト社会主義共和国連邦を構成したのは、1922年にはロシア、ベラルーシ、ウクライナ、ザカフカースの4国であった。ロシア共和国は、ソ連邦の全面積の4分の3、全人口の半分、資源の8割方を占める最大の連邦構成国であった。首都のモスクワ、大都市レニングラード(現サンクトペテルブルク)を含む、旧ロシア帝国以来のスラヴ人を主体とした国家であったが、共和国内の北カフカス地方や中央アジア、シベリアには、多くの自治国と自治区を含んでいた。
★ロシア革命のもたらしたもの
封建社会の上に成り立っていた帝政を打倒
社会主義権力の樹立
平和と農民の解放が実現
ソヴィエトを基盤とした社会主義国家
→議会政治や市民的自由は排除
レーニンはプロレタリア独裁は過渡的な国家形態であると言ったが、一党独裁が強化されるなかで党官僚制は肥大化、硬直化→1925年以降のスターリン独裁体制へ
スターリン体制
レーニンの後継者となったスターリン(ロシア人ではなくグルジア人であった)
一国社会主義論
世界革命論
1929 トロツキー 排除
1933 アメリカソ連承認(Fローズヴェルト)
1934 仏ソ相互援助条約
フランスはナチスドイツに進出するため
1934 粛清して独裁体制
五カ年計画による社会主義建設
工業重視
食糧不足などの問題
言論は封殺
社会停滞
1939 国際連盟除名
フィンランドとの戦争を侵略行為とされて除名
1945 日本の分割を米トルーマン大統領に提案も断固拒否される
★ソ連は第二次世界大戦の独ソ戦などで多大な犠牲を払ったがアメリカ・イギリスとともに連合国を構成し協力してドイツ・日本との戦いに勝利したことによって、戦後の国際社会では世界の大国としての地位を築いた。大戦中に発足した国際連合においても安全保障理事会の常任理事国となった。
フルシチョフ
スターリン批判
1956年、フルシチョフ政権によるスターリン批判を機にアメリカを主とする資本主義陣営との平和共存を模索する路線に転じた。
ブレジネフ
中ソ対立
社会主義国中国との関係が悪化し、中ソ対立が始まり、一時は武力衝突までおこった。その間、官僚的な共産党独裁体制のもと経済停滞が深刻となっていった。
ゴルバチョフ
ペレストロイカ、グラスノスチ
東欧社会主義圏の変動を呼び起こす
市場経済導入
→自由主義経済、需要と供給、価格自動調整
ブレジネフ政権下で反体制知識人として逮捕された「ソ連水爆の父」と呼ばれたサハロフを解放反体制活動家に自由を与える。
1988 アフガニスタン撤退
マルタ会談
1989年には冷戦の終結をアメリカ大統領ブッシュとともに宣言するに至った。
1989 北京訪問
天安門広場に集まっていた青年に民主化を期待させた
エリツィン
人民代議員議長
ソ連邦解体。
ロシア連邦
独立国家共同体(CIS)に属する
冷戦終結後、二大国の相手国アメリカとは関係悪化。
プーチン
ロシア連邦内のチェチェン共和国の分離運動を厳しく弾圧
2008年にはグルジア紛争
グルジア内の親露派の南オセチアとアブハジアの分離運動を支援
2015年文化構想
2012年国際教養
2012年文学部
2012年政治経済
2023年法学部
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