匈奴

匈奴

匈奴はモンゴル高原にあって漢民族の農耕社会を脅かした遊牧騎馬民族

中国の北方民族のなかで、モンゴル高原で遊牧生活を送っていた匈奴は、秦の始皇帝が中国を統一した前3世紀の終わりごろ、部族統一をなしとげ強力な国家を形成

騎馬遊牧民で馬上から弓を射ながらの攻撃は農耕民である漢民族の脅威となる。

匈奴はいったん勢力が衰えたが、中国本土で項羽と劉邦が争っている間に勢力を盛り返し、冒頓単于のもとで強大な遊牧国家を形成

東の「東胡」と西の「月氏」を征服して「匈奴帝国」を実現
前200年、漢の高祖(劉邦)は匈奴帝国の冒頓単于と平城で戦って敗れ、漢宗室の女性を公主(天子の娘)として単于の妻とし、毎年一定の贈り物を匈奴の王に贈るという屈辱的な和を結んだ。
それ以降漢と匈奴帝国は対等な外交関係をとることとなった。

漢の武帝の匈奴制圧
一転して武帝は対匈奴強攻策に出て、前129年以来、衛青、霍去病(かくきょへい)らの諸将軍に大軍をつけて討伐軍を送り、匈奴を圧迫し、西域に進出
匈奴を挟撃する目的で張騫を大月氏国に派遣
この武帝によるたび重なる討伐を受けたため、匈奴は次第に衰退し、紀元後1世紀頃には東西に分裂する。

漢は前59年に西域都護を置き、匈奴討伐を強めた。
その前の前60年ごろ、虚閭権渠(きょりょけんきょ)単于が没すると内紛が生じ、一時は五人の単于が並立するという分裂状態となった。

漢王朝は匈奴の離反をさけ、懐柔するために王家か後宮から女性を選び匈奴王に嫁がせる通婚政策をとった。これは唐では「和蕃公主」と呼ばれた。

国家の犠牲となって強制的に異朝の宮廷に送られる女性の悲劇だった。有名な話に漢の元帝の時に匈奴の呼韓邪単于の求めに応じて贈られた王昭君の話がある。この話は元の時代になって元曲の『漢宮秋』となって広く知られている。漢宮秋では王昭君は国境の黒河で投身自殺することになっている。

匈奴の南北分裂
漢王朝は冊封体制をとり、周辺国の君主の王号を認め、それぞれ印綬を与えていたが、前漢に代わって新王朝を建てた王莽は異民族の君主をすべて王から侯に格下げした。

匈奴帝国の崩壊とその後のモンゴル高原
北匈奴はモンゴル高原に残ったが、後漢と結んだ南匈奴が、モンゴル高原東方にいた烏桓(うがん。烏丸とも書くモンゴル系遊牧民)、鮮卑、南方の丁零などの遊牧民とともに北匈奴を攻撃し、87年には単于が鮮卑に殺害され、91年にはその本拠も奪われた。匈奴帝国は実質的に姿を消した。その一部がさらに西進し、ヨーロッパに現れてフン人となった、という説が有力である

匈奴帝国が崩壊した1世紀末以後のモンゴル高原には、東部を本拠とした鮮卑(トルコ系またはモンゴル系)が有力となり、後漢末の混乱で亡命してきた漢人を受け容れて漢化しながら、しばしば中国本土に侵攻するようになる。一方、南匈奴は後漢に服属して以来、中国の北辺に移動して定住し、五胡の一つとされ、晋の八王の乱に乗じて、華北に進出し、五胡十六国時代の趙、北涼、漢、夏などを建国した。華北が鮮卑族の北魏によって統一されるとそれに服属し、同化していった。

五胡十六国時代の匈奴
南匈奴は後漢の支配のもと山西省各地で部族ごとに生活していたが、魏の曹操がこの地を制圧

3世紀末、晋で八王の乱が起こると匈奴はその軍事力を利用されるようになった。匈奴の自主性回復の好機と捉えた劉淵は匈奴の兵5万を結集して、304年、漢王を称して独立し(漢王を称したのは、東晋に奪われた漢王朝を復活させることを標榜したため)、山西で建国、漢の高祖を名乗った。

これが五胡十六国時代の幕開けとなった。その弟の劉聡は316年、洛陽を陥れ西晋を滅ぼす(永嘉の乱)。この漢は、319年に国号を趙に代える(前趙)。前趙は、後に羯人の石勒が建てた後趙に併合される。

2012年 政治経済