2世紀

100年代
詳細は「100年代」を参照
101年 – 安息王満屈復(パルティア王パコルス2世)が後漢に使者を派遣する。
101年頃 – カンボジアで扶南が建国される。
105年 – 後漢の蔡倫が製紙法を改良する。
106年
ローマ皇帝トラヤヌスがダキア戦争に勝利し属州ダキアを設置。
ナバテア王ラベル2世死去に伴い、トラヤヌス帝がナバテア王国を征服して属州アラビアを設置。
106年頃 – ガウタミープトラ・シャータカルニ王が即位し、サータヴァーハナ朝が最盛期を迎える。
107年
倭国王帥升らが後漢の安帝に生口160人を献上する。
(後漢・永初元年、丁未;『後漢書』安帝紀、同東夷伝)。
西域都護が廃止される。
この頃、倭は朝鮮の弁韓・辰韓の鉄を盛んに輸入する(『三国志』魏書韓伝)。
110年代
詳細は「110年代」を参照
113年 – トラヤヌスのフォルムにトラヤヌスの記念柱が建設される。
114年 – ローマ皇帝トラヤヌスのパルティア遠征( – 117年)。属州アルメニアを獲得。
114年頃 – ローマ帝国の属州アシア首府エフェソスにケルススの図書館(英語版)が建てられる( – 117年頃)。
115年 – ローマ皇帝トラヤヌスが属州メソポタミアを獲得。
116年 – ローマ皇帝トラヤヌスが属州アッシリアを獲得。
117年 – この頃、ローマ帝国の領土が最大となる。
属州キリキアのセレヌスにてローマ皇帝トラヤヌスが死去。
養子のハドリアヌス帝(トラヤヌス帝の従兄弟の子)が即位。
先帝の獲得した東方属州(アルメニア・メソポタミア・アッシリア)を放棄。
118年
ハドリアヌス帝側近による四執政官事件。
ティヴォリのヴィッラ・アドリアーナが着工される。
120年代
詳細は「120年代」を参照
121年 – 後漢で鄧太后の死去に伴い、安帝が鄧騭ら鄧一族を粛清し、蔡倫も連座する。
122年 – ハドリアヌスの長城が着工される。
124年 – 再建されたパンテオンが完成する。
125年 – 後漢で少帝懿の死去に伴い、孫程らが閻顕ら閻一族を粛清し、順帝を擁立する。
126年 – 西域長史班勇が北匈奴の呼衍王を破る。
130年代
詳細は「130年代」を参照
130年 – ローマ皇帝ハドリアヌスが寵愛していた青年アンティノウスが死去。
ハドリアヌスは彼を記念してエジプトナイル川中流域にアンティノポリス(英語版)を建設させる。
130年頃 – インドのクシャーナ朝でカニシカ王が即位する( – 170年頃)。
カニシカ王の統治期間には諸説あるが、近年発見された「ラバータク碑文」によりその系譜は確定された。
カニシカ王即位とほぼ同時期に作成されたのが「カニシカ王の舎利容器(ペシャーワル博物館蔵)」。
131年頃
インドのマトゥラーで「カニシカ王在位4年」の銘がある「キンベルの菩薩坐像(英語版)(キンベル美術館蔵)」が作られる。
ローマ皇帝ハドリアヌスがサルウィウス・ユリアヌスに命じ法典『永久告示録』を編纂させる。
132年 – アテネにハドリアヌスの図書館が建てられる。
135年
ローマ帝国がユダヤ人の蜂起を鎮圧(バル・コクバの乱)。
エルサレムは「アエリア・カピトリナ」と名前を変えられ、ユダヤ人の立ち入りが禁止される(ディアスポラ)。
フォロ・ロマーノ東端に帝政ローマ時代最大の神殿であるウェヌスとローマ神殿が完成する。
138年 – ローマ皇帝ハドリアヌスが死去。アントニヌス・ピウス帝が即位。
139年 – ハドリアヌスの霊廟(現サンタンジェロ城)が完成する(135年 – )。
140年代
詳細は「140年代」を参照
142年 – アントニヌスの長城が着工される。
146年 – 後漢の質帝が梁冀により毒殺される。
147年頃 – 倭国大乱(- 189年頃)。
148年 – パルティア出身の仏教僧安世高が後漢の洛陽に来訪。
150年代
詳細は「150年代」を参照
150年頃 – クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト(天文学大全)』が完成する。
156年 – 鮮卑の檀石槐が北匈奴を破り、モンゴル高原を統一する。
159年 – 後漢の桓帝の命令で外戚の梁冀が誅殺される。
桓帝は功労者の宦官単超らを侯に封じ以後、外戚に代わり宦官が勢力を拡大。
160年代
詳細は「160年代」を参照
161年 – ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが死去。マルクス・アウレリウス・アントニヌスが即位。
162年 – マルコマンニ戦争が起こる( – 180年)。
164年 – ローマ帝国軍がアントニヌスの長城からハドリアヌスの長城まで撤退。
165年 – アントニヌスの疫病(英語版)( – 180年)。
166年
後漢で第一次党錮の禁が起こり、宦官が李膺ら清流派の官僚を弾圧する。
日南郡(後漢)に大秦王安敦(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使者が到着。
169年 – 後漢で第二次党錮の禁が起こる。
170年代
詳細は「170年代」を参照
175年
ガイウス・アウィディウス・カッシウスの反乱。
洛陽太学門外に儒学七経の石経である「熹平石経」の設置が始まる( – 183年)
177年 – 属州ガリアのルグドゥヌム(現リヨン)でキリスト教迫害が起きる。
178年 – 189年 – 洛陽にて月氏出身の支婁迦讖による最初の大乗経典の漢訳が行われる。
180年代
詳細は「180年代」を参照
180年 – ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスがウィンドボナで死去。その長男コンモドゥスが即位。
180年頃 – 210年頃 – 三輪山の北西麓一帯に纒向遺跡が出現(纒向1類)。
184年 – 後漢で黄巾の乱が起こる。
184年頃 – 倭国乱れ、互いに攻伐しあい(倭国大乱)、長い間盟主なし、と伝える(『魏志倭人伝』)。
この後、卑弥呼が共立されて王となる(『魏志倭人伝』)。
奈良県天理市の東大寺山古墳より、「中平□年」(中平は184年 – 189年)の紀年銘を持つ大刀が出土している。
186年 – 200年頃 – トリーアのポルタ・ニグラ(黒い城門)が建設される。
188年 – 後漢の霊帝が西園八校尉の設置などの軍制改革を行う。
189年 – 後漢で霊帝が死去し、少帝が即位。
何進や袁紹らの宦官粛清の混乱で、董卓が少帝を廃し献帝を擁立。
190年代
詳細は「190年代」を参照
191年 – 陽人の戦いで反董卓連合軍が董卓に勝利、董卓は洛陽から長安に遷都。
192年
董卓が王允と結んだ呂布に殺される。董卓の配下であった郭汜・李傕らが長安を奪取し王允を殺害。
後漢の支配下にあった日南郡の区連が蜂起し、独立して林邑(チャンパ王国)を建国。
ローマ皇帝コンモドゥスが暗殺され、アントニヌス朝は断絶。
193年 – 内戦からローマで五皇帝が乱立(五皇帝の年)。
この内戦を鎮圧したセプティミウス・セウェルス帝が即位しセウェルス朝が成立。
セウェルス帝は属州アフリカのレプティス・マグナ出身で、皇帝になると同時にこの都市の大開発を行う。
196年
後漢の献帝が洛陽に帰還、さらに曹操の庇護を受け許に遷都する。
曹操が韓浩・棗祗らの提言に従って屯田制を導入する。
セウェルス帝が反対派についたビュザンティオンを征服し破壊する。
199年
ローマでカリストゥスのカタコンベ(英語版)が造営される。
助祭カリストゥス(後にローマ教皇)がアッピア街道沿いに作らせたもので歴代教皇の墓がある。
200年代
詳細は「200年代」を参照
200年 – 官渡の戦いで曹操が袁紹に勝利する。
200年頃 – ユダヤ教ラビのイェフダ・ハ・ネスィアにより口伝律法『ミシュナ』が編纂される。
文化
105年 – 後漢の蔡倫が製紙法を改良する。
フィクションのできごと
130年代 – ローマ帝国の浴場専門の建築技師であるルシウス・モデストゥスはひょんなことから現代の日本にタイムスリップにしてしまう。ルシウスは伊藤温泉の才媛小達さつきらとの交流を深めていく一方で皇帝ハドリアヌスにもその才能を見込まれていく(ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』)。
161年以降 – エトルリアの貴族に生まれたマリウスはマルクス・アウレリウス帝の秘書官となり、アプレイウスの小説やヘラクレイトスの哲学そしてストア派哲学から初期キリスト教の様々な思想に触れ、魂の遍歴を重ねていく(ウォルター・ペイターの小説『享楽主義者マリウス』)。
180年 – ローマ帝国の将軍マキシマス・デシマス・メレディウスは、皇帝マルクス・アウレリウスを息子コモドゥスが暗殺した陰謀に巻き込まれ、家族を殺された上に自らも奴隷に身分に落とされる。武勇に優れたマキシマスは剣闘士(グラディエーター)となり、コモドゥスへの復讐を誓う(リドリー・スコット監督の映画「グラディエーター」)。
192年 – 後漢の政治家王充は政権を壟断した董卓を討つため、その部下である呂布を離反させるべく「中国四大美人」の一人ともされる貂蝉を送り込んだ。これが「美女連環の計」である(『三国志演義』)。