西晋、竹林の七賢

3世紀の魏晋のころ、老荘思想の影響を受け清談に明け暮れた七人を言う。
七人が同時に活動したわけではない。
魏から西晋にかけての3世紀ごろ、老荘思想の影響を受け、儒教倫理の束縛から離れた自由な議論を展開
背景には三国の中で有力であった魏で、司馬懿が実権を握り、司馬昭、司馬炎と三代がかりで権力を簒奪して晋(西晋)を建国したという3世紀の王朝交替がの混乱があった。貴族の中にそのような政治の場面から身を避けて隠遁し、竹林に集まって酒を飲んだり、楽器を奏でたりしながら、きままに暮らす人々が現れた。彼らは権力者の司馬氏からの招聘も断り、自由に議論するを好んで「竹林の七賢」と称された。阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉怜・阮咸(げんかん)・王戎の七人を言うが、七人が同時に集まっていたということではない。彼らの議論は「清談」と言われ、以後の六朝の文化人の理想とされた。なおその中の嵆康は、魏の実力者司馬昭(司馬炎の父)によって死刑になっている衰え、479年に最後の皇帝順帝が軍人の蕭(しょう)道成に位を禅譲して滅亡した。蕭道成は建康を都として継続し、国号を斉と改めた。

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