10世紀

900年頃
ヴァイキングによりスコットランドの「ガロウェイの遺宝(英語版)」が埋蔵される。
901年
藤原時平により菅原道真が大宰府へ左遷される(昌泰の変)[1]。
元号が「昌泰」から「延喜」に替わる(延喜の治)。
六国史の最後となる『日本三代実録』が完成する。
唐の昭宗皇帝が長安から李茂貞支配の鳳翔に逃亡( – 903年)。
ウシュマルの大競技場がチャン・チャク・カクナル・アハウ王によって奉献される。
902年
鄭買嗣が南詔を滅ぼす。
延喜の荘園整理令により院宮王臣家が荒田閉地を請占するを禁ずる。
同年、最後の班田が行われ、班田は以後断絶する。
アグラブ朝がタオルミナを占領し、東ローマ帝国のシチリア支配が終わる。
903年
大宰府にて菅原道真死去。
唐の昭宗が、李茂貞支配の鳳翔から、朱全忠支配の長安に帰還。
904年
朝鮮半島で弓裔が摩震(のち泰封)を建てる。
唐の昭宗が長安から朱全忠の指示で洛陽に遷都。昭宗が殺害され、息子の哀帝が擁立される。
905年
唐で九曲池の変と、白馬の禍(中国語版)が起きる。
『延喜式』編纂開始。紀貫之・紀友則・壬生忠岑らが『古今和歌集』を撰進。
アッバース朝がトゥールーン朝を滅ぼす。
東ローマ皇帝レオーン6世の「四婚問題」が起こる。
906年
マジャール人によりモラビア王国が滅亡。
モースルのハムダーン朝が独立。
907年
宣武節度使の朱全忠が唐を滅ぼし後梁を建国。五代十国時代の始まり。
契丹(遼)の耶律阿保機が即位。
日本で『延喜格』が完成する。
909年には『延喜格』を頒下、910年には諸国に『延喜格』を写させる。
ルーシ・ビザンツ条約(911年に改定)。
この通商条約により「ヴァリャーグからギリシアへの道」が完成する。
ポジョニ(ブラチスラヴァ)の戦いでマジャール人が東フランクに勝利。
909年
チュニジアでアグラブ朝を滅ぼして、シーア派のファーティマ朝が成立。
ファーティマ朝のウバイドゥッラーがカリフとなり、東西に二人のカリフが分立。
メキシコのチャパス州トニナーの記念碑101号に暦日が記録される。
この記録を最後に古典期マヤ諸都市が放棄されたとみられ記録は途絶、以後は後古典期と呼ばれる。

910年
フランス中東部ブルゴーニュ地方にクリュニー修道院が設立される。
アキテーヌ公ギヨーム1世がベルノー(英語版)に初代修道院長を任命する。
イベリア半島のレオン王国でガルシア1世が即位し領土拡張を開始。
911年
東フランク王国でカロリング朝が断絶。
フランケン大公コンラート1世が東フランク王に選出され、ドイツ王国フランケン朝(コンラディン家)が成立。
サン=クレール=シュール=エプト条約で、ノルマン人の首長ロロがノルマンディー公国を樹立。
912年 – 『延喜式』の編集を促進させる。
913年
東ローマ帝国でコンスタンティノス7世が即位(- 959年)。
この文人皇帝は学者を集め、自らも『儀式の書』『帝国統治論』他を執筆し、「マケドニア朝ルネサンス」の中心として活躍。
ブルガリア王シメオン1世がコンスタンティノポリスに入城し皇帝を称す。
914年
オルドーニョ2世が即位しオビエドからレオンに遷都(アストゥリアス王国がレオン王国となる)。
三善清行が醍醐天皇に『意見十二箇条』を提出する。
915年 – ガリリャーノ川の戦いで、ローマ教皇とイタリア諸侯(スポレート公など)連合軍がイスラム教徒を撃退。
その功績によりイタリア王ベレンガリオ1世が皇帝として認められる。
916年 – ラーシュトラクータ朝インドラ3世の北伐によりプラティハーラ朝の都カナウジが陥落する。
917年 – ドイツの部族大公国としてシュヴァーベン公国が成立する。
918年
朝鮮半島で王建が泰封を滅ぼして高麗を建国。
遼の耶律阿保機が上京臨潢府(皇都)を新都に定める。
919年 – ハインリヒ1世(捕鳥王)が東フランク王に即位し、ドイツ王国ザクセン朝(リウドルフィング家)が成立。

920年 – 遼の耶律阿保機が契丹文字を制定させる。
920年頃 – 中国内蒙古自治区トルキ山遼墓の「彩色木棺」が作られる。
921年
アッバース朝がアフマド・イブン・ファドラーンらの使節をヴォルガ・ブルガールに派遣する。
ボン条約により東フランク王ハインリヒ1世と西フランク王シャルル3世が王位を相互承認。
空海に「弘法」の大師号が贈られる。
922年
西フランク王シャルル3世が廃位され、ロベール1世が西フランク王となる。
アッバース朝カリフのムクタディルがイブン・ファドラーンら使節団をヴォルガ・ブルガールに派遣。
バグダードでイスラム神秘主義者アル・ハラージュ(英語版)が異端者として処刑される。
923年 – 李存勗(荘宗)が後梁を滅ぼし、洛陽を都に後唐を建国。
924年 -アゼルスタンが全イングランドの王として即位( – 939年)
925年頃 – トミスラヴが最初のクロアチア王となる。
926年
契丹(遼)が渤海を滅ぼす。
興教門の変で後唐の荘宗が殺害され李嗣源(明宗)が即位。都を洛陽から開封に遷し、馮道を宰相とする。
927年
アラヴィー朝を倒しカスピ海南岸にズィヤール朝が成立。
ブルガリア正教会が独立正教会となり、ブルガリア総主教位が東方の各総主教から承認される。
928年
ジャワ東部にクディリ朝が成立。
バグラトゥニ朝アルメニアの都がシラカヴァンからカルスに遷される。
929年
後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世がカリフを称し、東中西に三人のカリフが鼎立する。
東フランク王ハインリヒ1世がベーメン(ボヘミア)公ヴァーツラフ1世を臣従させる。
930年代
詳細は「930年代」を参照
930年
清涼殿落雷事件。醍醐天皇が没し第61代朱雀天皇が即位。藤原忠平が摂政就任。
イスマーイール派の分派カルマト派の信者がメッカのカーバ神殿から黒石を奪取( – 951年)。
アイスランドで世界最古の近代議会「アルシング」が創設。
932年
イラン系シーア派のブワイフ朝が興る。
スポレト公アルベリーコ2世がその母マロツィアのローマ支配を覆し、ポルノクラシーが終わる。
933年 – 上ブルグント王国が下ブルグント王国を併合する(アルル王国)。
934年 – 修道士エベルハルトによりスイス・アインジーデルン(英語版)のベネディクト会修道院(英語版)が創設される。
935年
平将門・藤原純友による承平天慶の乱が始まる(- 941年)。
呉越国の使者蔣承勲が来日。
翌年には左大臣藤原忠平が蔣承勲に託して呉越国王銭鏐への書状を送る。
高麗が新羅を滅ぼす。
エジプトにイフシード朝興る。
935年頃 – 紀貫之が最初の仮名日記である『土佐日記』を著す。
936年
高麗が後百済を滅ぼして朝鮮半島を統一する。
石敬瑭が後唐を滅ぼし後晋を建国。建国に協力した契丹(遼)が後晋から燕雲十六州を獲得する。
オットー1世がドイツ王に即位する。
伝承ではイラン東北部ホラサン地方からインドのグジャラート地方にゾロアスター教徒が移住する(パールシーの起源)。
937年
中国の雲南地方でタイ系の段氏が大理国を建国する。
ブルナンブルフの戦いでイングランド王アゼルスタンがスコットランド・ストラスクライド・ダブリンの連合軍に勝利。
939年
ベトナムで呉権が呉朝を建国。
シマンカスの戦いでキリスト教国連合軍が後ウマイヤ軍を破る。
940年代
詳細は「940年代」を参照
940年 – 平将門が「新皇」を名乗り自立するが、平貞盛・藤原秀郷らに討たれ乱は鎮圧される。寛朝により成田山新勝寺が建立される。
940年頃 – イスラム教に改宗したサトゥク・ボグラ・ハンがベラサグンを都としてカラハン朝を建国。
941年 – 藤原純友の乱が終わる。藤原忠平が関白就任。
943年 – シーア派(イスマーイール派)に接近したサーマーン朝のナスル2世が廃位され息子のヌーフ1世が即位。
944年
東ローマ皇帝ロマノス1世レカペノスのエデッサ占領
これにより獲得した「キリストの自印聖像(エデッサのマンディリオン)」をコンスタンティノポリスに移送する。
ロマノス1世レカペノスが廃位され、コンスタンティノス7世が正帝に復帰。
946年
朱雀天皇が譲位し、第62代村上天皇が即位(天暦の治)。
ブワイフ朝のバグダード入城。
ムイッズ・ウッダウラがアッバース朝カリフからアミール・アルウマラー(大アミール)の称号を得る。イクター制を導入。
契丹の耶律堯骨(太宗)が大梁(開封)を陥落させ後晋を滅ぼす。
高麗で白頭山大噴火。
947年
契丹が華北を放棄し、開封を占領した劉知遠が後漢を建国。
菅原道真を祭神とする北野天満宮が創建される。
950年代
詳細は「950年代」を参照
950年 – 村上天皇が内裏歌合を催行。
950年頃
トンガがトゥイ・トンガ(英語版)により統一される。
チャンデーラ朝のダンガ王が即位し、プラティーハーラ朝から独立。
クシ系アガウ族の女族長グディットによりアクスム王国が滅ぼされる。
951年
村上天皇が『後撰集』の編纂を下命。市聖空也により西光寺(現在の六波羅蜜寺)が創建される。
郭威が後漢を滅ぼし、後周を建国。
ドイツ王オットー1世のイタリア遠征。ブルグントのアーデルハイトと結婚しイタリア王を兼任する。
フランスのル・ピュイ司教ゴデスカルクによる最古のサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の記録がされる。
953年
ドイツ王オットー1世に対する息子リウドルフと娘婿コンラート赤毛公の反乱。
ドイツ王オットー1世の使者としてゴルツェのヨハネスが後ウマイヤ朝に派遣される( – 956年)。
954年
高平の戦いで、後周が北漢に勝利する。
イングランド王エドレッドがヨーク王エリックを倒しデーンロウを征服。
『ハザール書簡』が交わされる( – 961年)。
後ウマイヤ朝ユダヤ人ワズィールのハスダイ・イブン・シャプルトとハザールのヨセフ・カガンとの間で交わされたもの。
955年
ドイツ王オットー1世がレヒフェルトの戦いでマジャル人に勝利する。
後周の世宗が廃仏を行う(顕徳の廃仏、三武一宗の法難の最後)。
呉越王銭弘俶が八万四千宝塔を鋳造し頒布。
957年 – キエフ大公国王母オリガが東方正教会に帰依する。
958年
高麗で科挙制度が採用される。
皇朝十二銭の最後「乾元大宝」が鋳造発行される。
「乾元大宝」の鋳造発行が停止された963年以後、江戸時代の「慶長通宝」まで日本の公鋳貨幣は途絶えることになる。
960年代
詳細は「960年代」を参照
960年
ミェシュコ1世がピャスト朝ポーランド王国を建てる。
カラハン朝のテュルク系民族がイスラム教に集団改宗する。
陳橋の変で帝位についた趙匡胤(太祖)が宋を建てる。
平安遷都以来初めて内裏が全焼する(天徳4年の内裏焼亡)。
960年代
東ローマ帝国で最古の百科事典『スーダ辞典』が編纂される(- 970年代)。
961年
イベリア半島でカスティーリャ伯領成立。
東ローマ帝国がクレタ島を奪回。
962年
ドイツ王オットー1世がローマ教皇ヨハネス12世から帝冠を受け、神聖ローマ帝国が成立する。
アフガニスタンでトルコ系のガズナ朝が成立。
963年
東ローマ皇帝ロマノス2世が死去、その皇后テオファノと結婚した将軍ニケフォロス2世が皇帝となる。
アトスのアタナシオスが東ローマ皇帝ニケフォロス2世から勅許を得て、アトス山にメギスティ・ラヴラ修道院を建設する。
965年
北欧デンマークのハラール青歯王が洗礼を受ける。
キエフ大公スヴャトスラフ1世の遠征によりサルケルとイティルが攻略されハザールが滅ぼされる。
966年
ベトナムで丁朝が成立。
ノルマンディー公リシャール1世がベネディクト会の修道院をモン・サン=ミシェル島に建てる。
967年
村上天皇が死去し、第63代冷泉天皇が即位。藤原実頼が関白就任。
神聖ローマ帝国の使節としてクレモナ司教リュートプランドがコンスタンティノポリスを訪問。
968年
東ローマ皇帝ニケフォロス2世がアンティオキアを占領。
東ローマ帝国はヘラクレイオス帝以来約330年ぶりにイスラム勢力からアンティオキアを奪回した。
神聖ローマ皇帝オットー1世がマクデブルク大司教座を設置する。
レオン王国北西ガリシアに上陸したヴァイキングをガリシア貴族ロセンドらが撃退する。
後ウマイヤ朝で「ムギーラの小箱(フランス語版)(ルーヴル美術館蔵)」が作られる。
丁部領が十二使君の乱を平定し、丁朝大瞿越を建国する。
969年
ファーティマ朝がエジプトに進出してイフシード朝を滅ぼす。
安和の変が起こる。
源満仲の讒言により左大臣源高明が左遷される
冷泉天皇が譲位し、第64代円融天皇が即位。藤原実頼が摂政就任。
高麗の使節が対馬国にくる。
東ローマ皇帝ニケフォロス2世フォカスが暗殺され、甥のヨハネス1世ツィミスケスが即位する。
970年代
詳細は「970年代」を参照
970年
藤原伊尹が摂政就任。
源為憲の『口遊』がまとめられる。
『口遊』の「雲太、和二、京三」の数え歌で知られる出雲大社の巨大社殿はこの時期に存在したか。
ファーティマ朝のムイッズによりカイロのアズハル・モスクと付属のマドラサが建てられる。
このマドラサは現存するイスラム最古の大学であるアズハル大学の前身。
971年
宋が南漢を滅ぼす。
シリストラの戦いで、東ローマ皇帝ヨハネス1世ツィミスケスがキエフ大公スヴャトスラフ1世の軍を撃破する。
972年
藤原兼通が関白就任。
ペチェネグ族がドニエプル川河畔でキエフ大公軍を壊滅させ、スヴャトスラフ1世を戦死させる。
神聖ローマ皇帝オットー2世と東ローマ帝国皇女テオファヌの結婚。
973年
デカン高原でタイラ2世がラーシュトラクータ朝を倒しチャールキヤ朝を再興する。
ファーティマ朝がイフリーキヤのマフディーヤからエジプトのカイロに遷都。
クリュニー修道院院長マヨルス(英語版)がアラブ人海賊により南フランスのフラクシネートゥム(英語版)で拉致される。
プロヴァンス伯ギョーム1世が報復として南フランスからアラブ人を駆逐。
975年
宋で最初の殿試が行われる。
宋が南唐を滅ぼし金陵を占領。
東ローマ皇帝ヨハネス1世ツィミスケスがアレッポほかシリア・パレスティナを占領。
976年
東ローマ帝国でバシレイオス2世が皇帝に即位( – 1025年)。東ローマ帝国は最盛期を迎える。
神聖ローマ帝国がオーストリアにバーベンベルク家の辺境伯領を設ける。
宋の太祖が急逝し、実弟趙光義が太宗として即位(千載不決の議)。
977年 – 兼明親王・昭平親王の皇籍復帰。藤原兼通死去、藤原頼忠の関白就任。
978年 – 神聖ローマ皇帝オットー2世のパリ攻撃を西フランク王ロテールが撃退。
979年 – 宋の太宗が北漢を滅ぼして中国統一する。続く高粱河の戦いで宋は遼に敗北し燕雲十六州の回復を断念。
980年代
詳細は「980年代」を参照
980年
マルギュ・シュル・シエール(英語版)条約で、神聖ローマ皇帝オットー2世と西フランク王ロテールが講和。
スウェーデン王エリク6世(勝利王)がウプサラでデーン系ヴァイキングに勝利する(フェリスヴェトリルの戦い)。
平安京の羅城門が倒壊し、以後は再建されず。
980年頃 – ドイツのエッセン大聖堂の「黄金の聖母子像(英語版)」が作られる。
981年 – 西ガンガ朝のチャムンダラヤによりシュラバナベルゴーラにジャイナ教祖師ゴーマテーシュヴァラ(バーフバリ)の像が建てられる。
982年 – コロンナ岬の戦いで、神聖ローマ皇帝オットー2世軍がシチリア首長国に敗北する。
982年頃 – 慶滋保胤 が『池亭記』を執筆。
983年 – 中国で最初の大蔵経である開宝版大蔵経(蜀版大蔵経)が刊行される。
984年
円融天皇が譲位し、第65代花山天皇が即位、花山新制の実施。
遼で現存する薊県独楽寺の山門と観音閣が再建される。
日本僧奝然が宋の太宗に拝謁し、法済大師号と大蔵経を賜与される。
985年
源信が『往生要集』をまとめる。
986年
岐溝関の戦い(中国語版)(雍熙北伐)で宋が遼に大敗する。
寛和の変により、花山天皇が退位させられる。
第66代一条天皇即位。藤原兼家が摂政就任。
987年
西フランク王国でカロリング朝が断絶し、サンリス諸侯会議が開かれる。
ロベール家のユーグ・カペーが国王に選出されカペー朝フランス王国が始まる。
バルセロナ伯ボレイ2世がカペー朝フランスから自立する。
988年
キエフ大公ウラディミル1世が東ローマ帝国領のクリミア半島ケルソネソスを占領。
この地でウラディミル1世は東ローマ帝国皇女アンナと結婚し、東方正教会に改宗する。
キエフから送られたヴァリャーグ人により、東ローマ帝国親衛隊(ヴァラング隊(英語版))が組織される。
世界創造紀元が東ローマ帝国ではじめて公式に使用される(この年は6496年と算定される)。
カイロのアズハル・モスク(972年完成)付属のアズハル大学が設置される。
ガズナ朝のサブク・ティギーンが北西インド・パンジャーブ地方の中心ペシャーワルを占領する。
989年
シャルー(英語版)教会会議で最初の「神の平和(パックス・デイ)(英語版)」が布告される。
コンスタンティノポリスで地震、ハギア・ソフィア大聖堂の西側ドームのアーチが崩落する。
「永祚の風」。
990年代
詳細は「990年代」を参照
990年
藤原兼家が関白就任。藤原道隆が摂政・関白就任。
司教フベルトゥスによってシャルトル大聖堂付属学校が設立される(シャルトル学派の始まり)。
991年
イングランドにノルウェー王オーラフ1世来襲する。デーンゲルドの徴収始まる。
一条天皇の生母で皇太后藤原詮子に「東三条院」の院号が贈られる(女院の始まり)。
993年
延暦寺から慶祚ほか智証派(円珍派)が山を下りて園城寺に入り、天台宗は延暦寺の山門派と、園城寺の寺門派に分裂する。
この頃清少納言が『枕草子』を記す(成立年代については諸説あり)。
995年
藤原道兼が関白に就任するが、就任後12日で死亡し「七日関白」と称される。
藤原道長が内覧となり、事実上の摂政となる。
996年
長徳の変により中関白家の藤原伊周・隆家兄弟が失脚する。
ロベール2世がフランス王として即位、しかし再婚問題が原因で教皇グレゴリウス5世に破門される。
997年
ハンガリー大公ゲーザの死により息子イシュトヴァーン1世が後を継ぐ。
後ウマイヤ朝の大臣アル・マンスールがサンチアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂を破壊する。
ノルウェー王オーラヴ1世がニーダロス(現トロンハイム)を都に定める。
奄美島人(高麗人説もあり)が対馬・壱岐に来襲(長徳の入寇)。
998年
ヴェネツィアがアドリア海沿岸のダルマチアを支配下に置く。
999年
カラハン朝のイリグ・ハンがブハラを占領しサーマン朝を滅ぼす。
長保元年の内裏焼亡。
祇園御霊会で、雑芸者の無骨法師が大嘗会の標山を模した作山(山鉾の原型)を引く。
スヴォルドの海戦。
ノルウェー王オーラヴ1世がデンマーク王・スウェーデン王・ラーデ侯の連合軍に敗北し戦死。
1000年代
詳細は「1000年代」を参照
1000年
イシュトヴァーン1世が戴冠式を行い、正式にハンガリー王国が成立する。
ヴェネツィア元首ピエトロ・オルセオロ2世により昇天祭において「海との結婚」の儀式が初めて行われる。
ファーティマ朝カリフのハーキムが宦官の宰相バルジャワーン(英語版)を暗殺し実権を握る。
『チャム王家年代記』によるとヴィジャヤ朝チャンパ王国が成立する。
一条天皇の女御彰子を中宮とし、先立の中宮定子を皇后とする(一帝二后)。
1000年頃 – アイスランド人のレイフ・エリクソンがヨーロッパ系としてはじめて北アメリカ大陸に到達。
この地はヴィンランドと名づけられ、入植活動が行われる。ニューファンドランドのランス・オ・メドー遺跡がそれに相当するか。
フィクションのできごと
10世紀 – フランスのポワトゥー地方の領主としてリュジニャン家が登場するが、この家の始祖は下半身が蛇である妖精メリュジーヌを妻としていた。メリュジーヌの力により居城のリュジニャン城も建てられている(「メリュジーヌ伝説」)。
928年 – 旅の僧安珍が清姫に懸想され逃亡するも、紀州道成寺の大鐘の中で蛇体と化した清姫に焼き尽くされる(『大日本国法華験記』ほか「安珍・清姫伝説」)。
928年 – 五代十国後唐では国王と王妃の間は冷え切っていた。王妃に毒を盛る国王、皇太子と不倫する王妃、そしてそれをとりまく人々。この年の秋、城一面が菊の花で覆いつくされた中で催される豪奢な饗宴は、王家をめぐる陰謀と内乱の始まりだった(原作は曹禺の『雷雨』、張芸謀監督の映画「王妃の紋章」でも有名)。
930年 – 信貴山の命蓮が祈祷により、転輪聖王の金輪を転がす剣の護法童子を遣わし、醍醐天皇の病気を平癒させる(『信貴山縁起絵巻』)。
930年以前 – 皇子の身の上ながら盲目のため疎まれた蝉丸は父である醍醐天皇に捨てられ、逢坂山にて出家生活を営んでいた。そこへ同じく異形の者だということで捨てられ放浪していた姉の皇女逆髪が蝉丸のもとを訪れ、不幸の境遇を慰めあう(能『蝉丸』)。
939年以前 – 近江国三上山の百足が琵琶湖の龍神に依頼された藤原秀郷(俵藤太)によって討たれる(『太平記』ほか「百足退治伝説」)。
940年 – 平安京で晒し首にされた平将門の首級が関東を目指して舞い上がり空中を飛行し武蔵国豊嶋郡芝崎村(東京都千代田区大手町)に落下する(「平将門の首塚伝説」)。
940年以降 – 平将門の娘滝夜叉姫は一族郎党が滅ぼされた中にあって生き残り、貴船神社で復讐の成就を祈願し、下総の相馬の古御所に拠って朝廷転覆の謀略を巡らせることとなる(山東京伝の読本『善知鳥安方忠義伝』)。
956年 – 藤原師輔が内裏から退出して二条大宮「あははの辻」にて百鬼夜行に遭遇するも「尊勝陀羅尼」を誦して難を逃れる(『大鏡』)。
970年 – 信濃国戸隠の鬼女紅葉が勅命を受けた平維茂によって討たれる(能『紅葉狩』や小説『北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳全』ほか「紅葉伝説」)。
976年 – 比叡山の稚児であった梅若丸が人買いの信夫藤太により連れ出され、奥州に行く途上に隅田川の近辺で病に倒れ12歳で死去。その後その母が安否を尋ね隅田川に来た時に霊となった梅若丸が出現する(木母寺の伝承・能『隅田川』ほか松若丸伝説)。
980年以前 – 平安京の朱雀大路の南端にある羅生門はかねてから荒廃が著しく、楼門の二階には行き場のない遺体が放置されていた。ある若い下人がこの門を上がり、暗がりの中で死んだ女性の髪を梳く老婆に遭遇する(原典は『今昔物語集』、これをもとに芥川龍之介の小説『羅生門』が創られる)。
995年 – 丹波国大江山の酒呑童子が勅命を受けた源頼光と頼光四天王によって討たれる(「酒呑童子伝説」)。
996年以降 – 神聖ローマ皇帝オットー3世のもとへ無実の罪で斬首にされた夫の首を携え無念を晴らすべく伯爵夫人が現れる。夫人は皇帝の面前での神明裁判で熱せられた鉄塊を握りしめ身の潔白を訴え勝利を勝ち取る(「オットーの審判伝説」)。
999年以前 – オーリヤックのジェルベールが、コルドバのアラブ人から魔術を学びその技により悪魔と契約する。やがて彼はシルウェステル2世として教皇となる(「教皇シルヴェステル2世の悪魔伝説」)。