11世紀

1001年
北宋が成都府路・梓州路・夔州路・利州路を統合して川峡四路(四川路)を設置、これが四川の名称の始まり。
1002年
イングランド王エゼルレッド2世無思慮王が国内のデーン人を虐殺。
1003年 – 寂照が北宋に渡り皇帝真宗から紫衣と円通大師の号を賜与される。
1004年
澶淵の盟。
江西省昌南鎮が皇帝真宗の命により景徳鎮と改名する。
1005年 – ファーティマ朝カリフのハーキムがカイロに「知恵の家(ダール・アル・イルム)」を設置。
1006年
おおかみ座に超新星(SN 1006)出現。
明るさは太陽と月を除いて史上最高の-9等級と推定される。後世で藤原定家が『明月記』に記録した他に各国で記録あり。
高麗の論山灌燭寺弥勒菩薩立像(朝鮮語版)(恩津弥勒)が完成する(968年 – )。
カラハン朝のユースフ・カディル・ハンが仏教王国ホータン(于闐)を占領する。
ズィヤール朝君主カーブース・ブン・ワシュムギールの命によりゴンバデ・カーブースが建設される。
1007年
藤原道長が大和金峯山に埋経をする(金峰山経塚)。
神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世がバンベルク司教座を設置し、大聖堂を建設する。
1008年
北宋皇帝真宗が泰山で封禅の儀を行う。
バグラト3世がグルジア王国を統一する。
最古の完全体ヘブライ語聖書である「レニングラード写本」が作成される。
『紫式部日記』で言及される紫式部『源氏物語』の最古の記事(寛弘5年11月1日)。
1009年
ベトナムにて李朝が成立。
ファーティマ朝カリフのハーキムの命令でエルサレムの聖墳墓教会が破壊される。

1010年
イラン最大の民族叙事詩『シャー・ナーメ』完成。
1011年 – 一条天皇が譲位し三条天皇が即位する。
1012年
宋の皇帝真宗の命で福建省で栽培されていた占城稲(占城米)を江南各地に移植する。
ロムアルド(英語版)によりアペニン山脈にカマルドリ(英語版)修道院が創建される。
1013年
デンマーク王スヴェン1世(双叉髭王)がエゼルレッド2世に勝利してイングランド王になる。
チョーラ朝のラージャラージャ1世が北宋に最初の使者を送る。
1014年
クロンターフの戦いで、アイルランド上王ブライアン・ボルがヴァイキングを破り、これ以降アイルランドへの侵入が収束する。
クレディオン峠の戦いで、東ローマ皇帝バシレイオス2世がブルガリア皇帝サムイルに勝利。
1015年 – キエフ大公ウラジーミル1世死去。その息子スヴャトポルク1世が兄弟のボリスとグレブを殺害して大公となる。
1016年
ジャワのクディリ王ダルマヴァンシャが殺害される(プララヤ)。
ノヴゴロド公ヤロスラフ1世が兄弟のスヴャトポルクを倒しキエフ大公となる。
この時期にスラブ民族最古の法典である『ルースカヤ・プラウダ』の「ヤロスラフ法典」が編纂される。
デンマーク王子クヌーズ(クヌート)がイングランド王に即位
三条天皇が譲位し後一条天皇が即位。外祖父の藤原道長が摂政となる。
1017年
チョーラ朝のラージェンドラ1世がシュリーヴィジャヤ征討の艦隊を派遣。
その途中でチョーラ朝はスリランカ島に上陸して都のアヌラーダプラほか島の大部分を征服。
シンハラ人は首都をアヌラーダプラからポロンナルワに遷都し、以後ここに多くの仏教建築がなされる。
藤原道長が摂政と氏長者を嫡男の頼通に譲る。敦明親王が自ら東宮辞退を申し出る(小一条院)。
1018年
ダンカン1世がストラスクライド王国(英語版)の王位を継承し、スコットランドのほぼ全域を支配。
バシレイオス2世が第1次ブルガリア帝国を滅ぼし、東ローマ帝国がバルカン半島のほぼ全域を奪回。
ガズニ朝のマフムードがインド遠征でカナウジを占領しプラティハーラ朝を滅ぼす。
藤原道長の娘威子が後一条天皇の后となり、祝宴にて「望月の歌」が詠まれる。
遼の陳国公主がこの年に亡くなり内モンゴル通遼市の陳国公主墓(中国語版)に葬られる。
1019年 – 刀伊の入寇。

1020年 – 遼と高麗が和平を結び、高麗は遼の服属国となる。
1021年 – ファーティマ朝カリフのハーキムが消息不明となる。
ハーキムの子ザーヒルがカリフとなり、姉シットゥ・アル・ムルクが摂政となる。
1022年
藤原道長による法成寺の落慶供養。
フランス王ロベール2世の命によりオルレアンで異端者に対する最初の火刑が行われる。
1023年 – 北宋で交子が紙幣として発行される(世界最古の紙幣)。
1024年 – ハインリヒ2世死亡、コンラート2世ドイツ王を継承。
1025年
チョーラ朝のラージェンドラ1世が再びシュリーヴィジャヤ征討の艦隊を派遣。
ピャスト家のボレスワフ1世が初代のポーランド王に選ばれる。
東ローマ帝国のバシレイオス2世が死去、弟のコンスタンティノス8世が即位。東ローマ帝国の拡張は終わる。
イブン・スィーナーが『医学典範(英語版)』を完成させる。
1026年 – ソランキ朝のビームデーヴ1世によりグジャラート地方モデラの太陽寺院が建立される。
1027年
エルヌ教会会議(トゥールージュ会議)で「神の休戦(トレグア・デイ)」が布告される。
イングランド王クヌートがローマ歴訪で、神聖ローマ皇帝コンラート2世の戴冠式に参加。
1028年
藤原道長死去。藤原行成死去。
平忠常の乱( – 1031年)。
イングランド王でデンマーク王でもあるクヌートがノルウェーの王位も兼任する(北海帝国の成立)。

1030年 – 神聖ローマ皇帝コンラート2世がシュパイアー大聖堂の建設を命じる。
1031年 – コルドバのカリフであるヒシャーム3世が廃位により追放され、後ウマイヤ朝滅亡。
サラゴサ王国・トレド王国・セビリア王国などのムスリム系群小国家(タイファ)が乱立する。
1032年
チベット系タングート族の西平王李徳明の死により李元昊が後を継ぐ。
ブルグント王家が断絶し、神聖ローマ皇帝コンラート2世がブルグントを併合。
神聖ローマ皇帝は中世ドイツの王・イタリア王・ブルグント王を兼任することになる。
1032年頃
シーア派系民兵組織がシリアのハッラーンを襲いこの地のサービア教徒共同体が壊滅し離散する。
1033年
北宋で皇帝仁宗の郭皇后が廃され、これをめぐり論争が起こる(慶暦の党議)。新たに曹皇后を冊立。
1035年
ナバラ王サンチョ3世(大王)死去。遺領配分からナバラ・カスティーリャ・アラゴン各王国が分裂する。
北海帝国のクヌート大王死去。マグヌス1世がノルウェー王として独立し北海帝国が崩壊する。
1036年
後一条天皇が崩御し、後朱雀天皇が即位。
西平王李元昊が北宋から粛州・瓜州・沙州を奪う。同年に西夏文字を制定させる。
1037年 – クディリのアイルランガ王が東部ジャワ再統一を完成し、カマラギャンに遷都。
1038年
ベーメン公ブレチスラフ1世によりポーランドの都グニェズノとポズナニが略奪される。
ポーランド公カジミェシュ1世が都をグニェズノからクラクフに移動する。
東ローマ帝国将軍ゲオルギオス・マニアケス(英語版)によるシチリア島東部の再征服。
トルコ人トゥグリル・ベクがニーシャープールの戦いでガズナ朝に大勝し、セルジューク朝を興す。
カイラワーンのイブン・ヤーシーンに共鳴した信徒がセネガル川流域で宗教団体ムラービトゥーンを結成。
西平王李元昊が帝号(景宗)を名乗り、西夏が建国される。
1039年
北宋で「皇宋通宝」が鋳造される(これは日本で発見された埋蔵渡来銭で最も量が多いもの)。
1040年代
詳細は「1040年代」を参照
1040年代
日本で公田官物率法が制定され、国司苛政上訴が収束する。
1040年
マクベスがスコットランド王ダンカン1世を殺害し王位を奪う。
ダンダーナカーンの戦いで、セルジューク朝がガズナ朝に勝利しイランに進出する。
1041年 – カラハン朝が東西に分裂。
1042年
東ローマ皇帝ミカエル5世が政変で廃位され、ゾエとテオドラの姉妹の皇女が共同女帝に立てられる。
インドのヴィクラマシーラ寺院のアティーシャがチベットのグゲ王国に入国しトリン寺に滞在する。
1043年 – 慶暦の改革により范仲淹・欧陽脩らが抜擢される。欧陽脩が『朋友論』を執筆。
1044年
慶暦の和約。
アノーヤター王が即位し、パガン朝の発展が始まる。
1045年
後朱雀天皇が崩御し、後冷泉天皇が即位。
東ローマ帝国がバグラト朝アルメニア王国を滅ぼし都アニを占領。アルメニア人のディアスポラが生じる。
エドワード懺悔王(証聖王)がテムズ川上流にウェストミンスター聖堂を建立( – 1050年)。
東ローマ皇帝コンスタンティノス9世によりコンスタンティノポリス大学が再編される。
1046年
スートリ教会会議で神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世が三教皇の鼎立を終わらせる。
キエフ大公ヤロスラフ1世の公子フセヴォロド(後のフセヴォロド1世)と東ローマ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの皇女の結婚。
1047年 – 遼の章聖皇太后により内モンゴル自治区慶州の白塔(遼釈迦仏舎利塔)が建立される。
1048年 – ノルマン人が北アフリカのチュニスを占領( – 1058年)。

1050年頃 -ソランキー朝の王妃ウダヤマティによりグジャラート州パータンのラーニー・キ・ヴァーヴ(王妃の階段井戸)が造られる。
1051年
前九年の役( – 1062年)。
フランス王アンリ1世とキエフ大公の公女アンナ・ヤロスラヴナが結婚する。
キエフ・ペチェールシク大修道院(キエフ・洞窟大修道院)が建立される。
1052年 – 最澄に仮託した著作『末法燈明記』などではこの年(永承7年)を末法元年とした。
『周書異記』に依拠して釈尊の入滅を周の穆王52年(紀元前949年)とし、正法1000年像法1000年説によりこの年を算定した。
1053年
藤原頼通により宇治の平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)が建立される。
チヴィターテの戦いに勝利したノルマン人が教皇レオ9世を捕虜とする。教皇は捕虜のまま翌年に死去。
1054年
コンスタンティノポリスで東西教会の相互破門事件(大シスマ)。
教皇使節フンベルトゥスとコンスタンティノポリス総主教ミカエル1世ケルラリオスの両者によって発生。
7月4日おうし座に超新星(SN 1054)出現。後の「かに星雲(M1)」。
1055年 – セルジューク朝軍がバグダードに入城し、ブワイフ朝の勢力を追い払う。
1056年
ムラービトゥーンのアブー・バクル・イブン・ウマルが指導者となりムラービト朝が成立。
遼の章聖皇太后の弟蕭孝穆により山西省応県の仏宮寺釈迦塔(応県木塔)が建立される。
東ローマ女帝テオドラが死去し、マケドニア朝の血統は断絶。元老院議員ミカエル6世ストラティオティコスが後継の皇帝となる。
1057年
ランファナンの戦いで、スコットランド王ダンカン1世の子マルカムがマクベスを倒す。
東ローマ皇帝ミカエル6世ストラティオティコスが政変で廃位され、イサキオス1世コムネノスが皇帝となる。
1058年
セルジューク朝のトゥグリル・ベクがスルタンを称す。
王安石が皇帝仁宗に万言書「仁宗皇帝に上 (たてまつ) るの書」で政治改革を表明。

1059年
教皇ニコラウス2世により教皇選挙(コンクラーベ)は枢機卿団によってのみ行われることが定められる。
教皇ニコラウス2世らのメルフィ会議によりロベルト・イル・グイスカルドのアプリア・カラブリア・シチリア公位が認められる。

1061年 – ノルマン人によるシチリア島征服が始まる( – 1091年)。
1062年 – ムラービト朝の君主ユースフ・イブン・ターシュフィーンが即位する。
1063年
北宋で仁宗が死去し、従兄弟の子が即位し英宗となり、濮議が起こる。
吐蕃の禹蔵花麻が西夏に帰属する。
1064年
セルジューク朝が東ローマ領となっていたアルメニアを占領。
パレルモ沖海戦で、ピサがイスラム軍に勝利する。
1065年以降
カタルーニャのサンタ・セシリア・デ・グラネラ教会礼拝堂(カタルーニャ語版)が建立される。
1066年
イングランドでエドワード懺悔王(証聖王)が死去、ハロルド2世が即位。
スタンフォードブリッジの戦い。
ノルウェー王ハーラル3世がイングランド王位を請求して、この戦いでハロルド2世に敗北。
ヘースティングスの戦い。
ノルマンディー公ギヨーム2世がハロルド2世を倒しイングランド制圧、ウィリアム1世として即位(ノルマン・コンクエスト)。
ノルマン・コンクエストを描いた「バイユーのタペストリー」にはこの年に接近したハレー彗星も描かれている。
1067年
チューリンゲン方伯がヴァルトブルク城を築く。
ニザーム・アルムルクによりバグダードにニザーミーヤ学院が創設される。
1068年
後冷泉天皇が崩御し、後三条天皇が即位。
1069年
北宋で王安石の改革が始まり、制置三司條例司が設置される。
この改革で「熙寧新法」と呼ばれる青苗法(1069年)・市易法(1072年)・均輸法・募役法(1070年)・保甲法・保馬法
※神宗により宰相に登用された王安石は財政再建と富国強兵を目指して新法とよばれる改革を実行した。改革をめぐり、これを支持する新法党と批判する司馬光ら旧法党との対立が生じ国政は混乱した。

・後三条天皇が延久の荘園整理令を発布し、記録荘園券契所を設置。

1069年頃
ユースフ・ハーッス・ハージブによる最初期のテュルク語文学『クタドゥグ・ビリグ』が書かれる。

1070年
東チャールキヤ王クロトゥンガがクロトゥンガ・チョーラ1世として即位、東チャールキヤ朝がチョーラ朝を継ぐ形で合併される。
スリランカで国王ウィジャヤバーフ1世がチョーラ朝勢力を追放する。
ノルウェー国王オーラヴ3世ヒッレが交易都市ベルゲンを建設する。
北宋の周敦頤が『太極図説』を撰述する。
延久蝦夷合戦。
1071年
マンツィケルトの戦い。
東ローマ皇帝ロマノス4世がセルジューク朝スルタンのアルプ・アルスラーンに大敗し捕虜となる。
ロマノス4世の廃位により東ローマ皇帝ミカエル7世ドゥーカスが即位。またこれ以後小アジアにトルコ人が定住し始める。
東ローマ帝国のイタリア最後の拠点バーリがノルマン人に征服される。
ムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーンが新都マラケシュを建設する。
1073年
後三条天皇が崩御し、白河天皇が即位。
教皇グレゴリウス7世が選出され、グレゴリウス改革が始まる。
セルジューク朝のマリク・シャーの招聘によりウマル・ハイヤームがメルブの天文台所長となる。
東ローマ皇帝ミカエル7世のもとで宦官ニケフォリツィス(英語版)が政府首班になる。
穀物販売業を国営化したことで物価上昇し、ソリドゥス金貨の金保有率が大幅に下落する。
1074年
藤原頼通が死去、上東門院彰子が死去。
セルジューク朝のマリク・シャーが都をエスファハーンに定める。
北宋で銅銭(宋銭)の輸出を解禁する。
1075年
教皇グレゴリウス7世による「ディクタトゥス・パパエ(英語版)(教皇令27ヶ条)」が布告される。
ミラノの大火で聖堂が焼失し、その混乱に乗じてパタリア運動(英語版)の指導者エルレンバルドゥス(英語版)が暗殺される。
ヴェネツィア元首ドメニコ・セルヴォと東ローマ帝国皇女テオドラの結婚。
北宋と李朝大越との戦い( – 1076年)。
1076年
白河天皇が法勝寺(六勝寺の最初)を建立する。
李常傑率いる李朝大越軍が如月江・富良江の戦いで北宋軍を破る。
セルジューク朝がファーティマ朝からエルサレムを奪う。
ムラービト朝がガーナ王国を滅ぼす。
1077年
カノッサの屈辱で、教皇グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の破門を解除。
ルーム・セルジューク朝が成立。
マフムード・カーシュガリーによる最初のトルコ語辞典『トルコ語集成』が作られる
アルフォンソ6世が教皇に対抗し「ヒスパニア皇帝」を名乗る。
アルフォンソ6世によりサンチアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂建設が始まる( – 1211年)。
ノルマンディーのバイユー大聖堂が奉献される。「バイユーのタペストリー」が完成する。
1078年
東ローマ皇帝ミカエル7世が政変で退位し、ニケフォロス3世が即位。カラブリュエの戦い(英語版)。
イングランド王ウィリアム1世がロンドンに要塞を建設する(ロンドン塔の始まり)。
ローマ教皇グレゴリウス7世がユダヤ人に対し「公職追放令」を布告する。
1079年
蘇軾が「湖州謝表」(『東坡烏台詩案』所収)の筆禍事件で黄州に追放される。
高麗王文宗から日本への医師招請事件( – 1080年)。

1080年
北宋の神宗による元豊の改革。
ブリクセン教会会議で、皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世を廃位し、対立教皇クレメンス3世を擁立。
ルーベンによりキリキア・アルメニア王国が建国される。
アラブ系天文学者ザルカーリーにより作られた「トレド天文表(英語版)」はこの年を基軸にしている。
1081年
北宋に拂菻国王滅力伊霊改撒の使者が到着する。
滅力伊霊改撒は東ローマ皇帝ミカエル7世かニケフォロス3世を指すと考えられる。
東ローマ皇帝ニケフォロス3世が反乱により退位させられ、アレクシオス1世コムネノスが即位。
コムネノス朝が始まり、軍事貴族の土地所有権・徴税権を大幅に認めるプロノイア制が拡がる。
延暦寺の僧徒が園城寺を襲い焼き打ちにする(永保元年の焼き討ち)。
1082年
東ローマ皇帝アレクシオス1世が金印勅書でヴェネツィアへの免税特権を認める。
東ローマ帝国の哲学者ヨハネス・イタロスが異端として糾弾される。
戒覚が北宋に渡り皇帝神宗から紫衣を賜与される。
1083年 – 後三年の役( – 1087年)。
1084年
ロベルト・イル・グイスカルドのローマ略奪(英語版)。
皇帝ハインリヒ4世に幽閉されていた教皇グレゴリウス7世がロベルト・イル・グイスカルドに救出される。
グレゴリウス7世は南イタリアのサレルノに亡命。翌1085年にその地で客死。
ケルンのブルーノがグランド・シャルトリューズを設立(カルトジオ会の創設)。
司馬光が『資治通鑑』を完成させる(1065年 – )。
1085年
カスティーリャ王アルフォンソ6世によるトレド征服。
プシェミスル家のヴラチスラフ2世が初代のボヘミア王に選ばれる。
イングランド王ウィリアム1世により「ドゥームズデイ・ブック」が作成される。
北宋で神宗の死去により哲宗即位。宣仁太后が摂政となり旧法党が復権(元祐更化 – 1093年)。
1086年
北宋で王安石・司馬光が相次いで死去。
白河天皇が第73代堀河天皇に譲位し、上皇として院政を開始し鳥羽離宮を造営。
サグラハスの戦いでムラービト軍がカスティーリャ王アルフォンソ6世を破る。
セルジューク朝の君主マリク・シャーと宰相ニザーム・アルムルクによりエスファハーンのジャーメ・モスク南ドームが着工される。
1087年
ジェノヴァとピサの艦隊がズィール朝の都マフディーヤを占領する。
ウィリアム2世、イングランド王に即位。
北宋で西安碑林が創建される。
1088年
第6代修道院長ユーグによりクリュニー第三聖堂(英語版)の建設が始まる( – 1130年)。
北宋の沈括が随筆『夢渓筆談』を書き始める( – 1095年)。
1088年頃 – ボローニャ大学が創建される。

1090年
ニザール派指導者のハサン・サッバーフがアラムート要塞を占領する。
カスティーリャ王アルフォンソ6世の娘婿ラモン・デ・ボルゴーニャによりアビラの城壁が建設される。
白河上皇の最初の熊野御幸、聖護院の僧増誉を熊野三山検校に任ずる。
1090年頃 – ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂が完成する(1063年 – )。
1091年 – マリツァ川流域のレブニオンの戦い(英語版)。
東ローマ皇帝アレクシオス1世が支援したポロヴェツ族にペチェネグ族が敗北し、部族集団が壊滅。
1092年 – セルジューク朝宰相ニザーム・アルムルクが暗殺される。セルジューク朝君主のマリク・シャーが病没。
1093年
北宋で宣仁太后の死去により哲宗の親政が始まり、新法党が復権(紹聖の紹述(中国語版) – 1100年)。
マリア・ラーハのベネディクト会修道院(英語版)が創設される。
1094年
ファーティマ朝カリフのムスタンスィルの死去により、ムスタアリーがカリフとなり兄弟のニザールは廃嫡される。
エル・シッドがバレンシアをイスラム教徒から奪回する。
出羽国にて平師妙・師季父子が反乱を起こす。
大宰権帥藤原伊房が職権を利用して遼と私貿易を行ったことにより解任される。
1095年
ローマ教皇ウルバヌス2世によるクレルモン教会会議。
セルジューク朝の攻撃を受けていた東ローマ皇帝アレクシオス1世の救援要請を受け、対イスラム教徒戦への参加を呼びかける。
ニザーミーヤ学院教授ガザーリーが回心し辞職、『哲学者の自己矛盾』を執筆。
1096年
第1回十字軍出発。民衆十字軍壊滅。
ドイツ・ラインラント各地でユダヤ人虐殺が発生。
逃亡したユダヤ人の多くはポーランド公ヴワディスワフ1世ヘルマンのもとで庇護される。
掖庭の獄。
永長の大田楽。
1097年
北宋で洛獄・同文館の獄が相次いで起こる。
ニカイア攻囲戦、ドリュラエウムの戦い。
1098年
ノルウェー王マグヌス3世(裸足王)がオークニー諸島・マン島・ヘブリディーズ諸島を占領しスコットランドを屈服させる。
モレームのロベールがシトー修道院を設立(シトー会の創設)。
十字軍のアンティオキア占領。これに乗じてファーティマ朝がセルジューク朝からエルサレム奪還。
1099年
エルサレム攻囲戦で十字軍がファーティマ朝に勝利し占領。エルサレム王国成立。
この時期までにアンティオキア公国・トリポリ伯国・エデッサ伯国など十字軍国家が成立する。
白河天皇の皇子で仁和寺の覚行が親王宣下を受け、最初の法親王となる。

1100年
北宋で哲宗の死去により徽宗即位。欽聖太后が摂政となり新法・旧法両党から登用し融和を促す( – 1101年)。
イングランド王国、ヘンリー1世が国王に即位( – 1135年)