6世紀

500年代
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502年 – 南朝の斉に代わり蕭衍(武帝)が梁を建てる
503年 – 「癸未年八月」の干支銘をもつ人物画像鏡が和歌山県橋本市の隅田八幡神社に伝わる(癸未年を443年とする説もある)。
504年 – 東ゴート国王テオドリックがゲピド族をカルパティア山脈周辺から放逐する。
506年 – アルメニア使徒教会の全主教会議により、カルケドン信条の不採択が決定される(アルメニア使徒教会の独立)。
507年
男大迹王が河内国樟葉宮にて治天下大王に即位。後に奈良時代に至り継体天皇の漢風諡号が撰進される。
鍾離の戦いで、梁が北魏に勝利する。
ブイエの戦いでフランク王国が西ゴート王国に勝利。西ゴート王国は南ガリアの領土を喪失。
507年-511年頃 – フランク国王クローヴィス1世のもとで「サリカ法典」が編纂される。
507年頃 – バーミヤンの大仏(東大仏)が建造される(西大仏は551年頃)。
510年代
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510年代 – エフタルのトラマーナ王と続くミヒラクラ王がインドにたびたび侵入する。
511年
フランク国王クロヴィス1世が死去し、領土はソワソン・パリ・ランス・オルレアンの各王国に分割される。
西ゴート国王アマラリックが即位。外祖父の東ゴート王テオドリックが摂政となり、両ゴート王国を統治。
梁の武帝が僧侶に向けて「断酒肉文」を布告。
512年
『ウィーン写本』が作成される。
古代ローマの医師ディオスコリデスが著した『薬物誌』の写本のひとつで、西ローマ帝国の皇女であった貴婦人アニキア・ユリアナ(英語版)(462年 – 527/528年)に献上されたもの。
日本が百済に対し任那の四県二郡を割譲する。
513年 – 百済から五経博士の段楊爾が来日する(日本最古の五経博士の記録)。
515年 – 北魏で大乗の乱が起こる。
518年 – ガリラヤ湖畔のベト・アルファ(英語版)のシナゴーグの床モザイク壁画が作成される( – 527年)。
520年代
詳細は「520年代」を参照
520年
インドのグプタ朝が分裂し統一王朝は崩壊。グプタ朝の版図は北ベンガルとビハールに限定される。
北魏の使者である宋雲と恵生がバダフシャン付近でエフタル王ミヒラクラに謁見する。
インド出身の達磨が海路を通って広州に到着する。
ラヴェンナに東ゴート国王のためのテオドリック廟が建立される。
520年頃
スウェーデン・ウプサラ大学カロリーネ図書館所蔵のゴート語訳『コデックス・アルゲンティウス(英語版)(銀文字聖書)』が作成される。
523年
北魏で六鎮の乱が起こる。
百済の武寧王が死去し、聖王が即位。
武寧王は忠清南道公州市(熊津)の宋山里古墳群の武寧王陵に葬られる。
南アラビアのヒムヤル国王ズー・ヌワースがユダヤ教に改宗し、キリスト教徒を弾圧(ナジュラーンの迫害)。
524年頃 – 東ゴート王国の執政官であったボエティウスが処刑される。この時期までに『哲学の慰め』が執筆される。
525年
東ローマ帝国の援助を得たアクスム王国がヒムヤル王国を滅ぼす。
東ローマ帝国のエデッサで大洪水の被害、後にユスティノポリスと改名し再建される。
城壁の再建の途中でキリストの「自印聖像(マンディリオン)」が発見される。
525年頃
ナスカの地上絵が作成される(コロンビア大学のストロングによるC14法年代測定では誤差は±80年)。
コンスタンティノポリスで象牙製の二連板浮き彫り「大天使ミカエルの像(英語版)(大英博物館蔵)」が作成される( – 550年頃)。
526年
東ローマ帝国のアンティオキアで被害者25万人以上の大地震が発生。
東ゴート王テオドリックが死去。テオドリックの娘アマラスンタの息子アタラリックが即位。
526年 – 539年
南朝梁の武帝の王子蕭繹(後の梁の元帝)が『梁職貢図』の原本を作成させる。
527年
筑紫国造磐井の乱起こる(『日本書紀』継体天皇21年)。
梁の武帝が建康の同泰寺で最初の捨身を行う。
東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が即位( – 565年)。
527年 – 565年頃
皇帝ユスティニアヌス1世の命令でシナイ山に聖カタリナ修道院が建てられる
528年
筑紫国造磐井斬殺される(『日本書紀』継体天皇22年)。
磐井の墓は福岡県八女市吉田の岩戸山古墳に比定される。
新羅法興王が仏教を公認。
河陰の変で、北魏の爾朱栄が霊太后を倒し孝荘帝を擁立。
マールワー王ヤショーダルマンがエフタル王ミヒラクラを破って、カシミールに敗走させる。
サーサーン朝皇太子ホスロー(後のホスロー1世)が教祖マズダクらマズダク教信者を殺害する。
529年
東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世がアテネのアカデメイアを閉鎖し非キリスト教の哲学者を追放する。
追放された哲学者たち(ダマスキオス、シンプリキオス、プリスキアノスら)はサーサーン朝ペルシア帝国へ亡命し、ホスロー1世の庇護を受ける。
ベネディクトゥスがイタリアのモンテ・カッシーノに修道院を創設。

530年 – ユスティニアヌス1世が古代ローマ法の集大成である『ローマ法大全』編纂を命じる(533年完成)。トリボニアヌス
531年
フランク王テウデリク1世とザクセン族の連合がテューリンゲン族を攻撃( – 533年)。
サーサーン朝ペルシア帝国でホスロー1世が即位( – 579年)し、サーサーン朝が最盛期を迎える。
継体天皇死去、安閑天皇即位。
継体天皇の陵墓として宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を指定しているが、近年の考古学界では淀川水系に位置する今城塚古墳が有力視されている。
532年
東ローマ帝国でニカの乱。
皇帝ユスティニアヌス1世は退位逃亡寸前まで追いこまれるが、皇后テオドラの助力で反徒を武力鎮圧。
この後コンスタンティノポリス市街の再建が進められ、巨大な地下貯水池(バシリカ・シスタン)もこの時期に造られる。
東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアとの間に「永久平和条約」が結ばれ国境が固定化される。
533年
東ローマ帝国が北アフリカのヴァンダル王国を征服。
フランク王テウデリク1世が、チューリンゲン王ヘルマンフリートをツェルピッヒ城で殺害し王国を滅ぼす。
534年
フランク王国(パリ・ソワソン)がブルグント王国を征服。
東ゴート王国女王アマラスンタが廃位される。
北魏の孝武帝が洛陽から出奔し、長安の宇文泰に招かれる。
高歓が鄴で孝静帝を擁立し、北魏は東魏(鄴)と西魏(長安)に分裂する。
西魏の宇文泰が郷兵を結集し、府兵制が成立する。
これに伴い十二大将軍・八柱国の軍団が整備され、武川鎮軍閥(関隴集団)が結集する。
535年
インドネシアのクラカタウ火山爆発による地球規模の異常気象(英語版)が起きる。
世界各地の古文書・年代記・伝承などに異常寒波・自然災害・飢饉・疫病が発生し、その結果政変や文明のの崩壊がおきたことが記されている[1]。
インドネシア・ジャワ島西部にあったタルマヌガラ王国(訶羅単(からたん))の衰退の原因とされる。
東ゴート元女王アマラスンタが殺害され、東ローマ帝国が軍事介入を開始(ゴート戦争)。
536年 – 安閑天皇死去、宣化天皇即位。
537年 – 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によりニカの乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂が再建される。
現存するイスタンブールの「アヤソフィア」は再建されたこの3代目の建物を指す。
538年
日本に仏教伝来(『上宮聖徳法王帝説』による)。
百済の聖王が都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷す。
539年
宣化天皇死去、欽明天皇即位。
ゴート人のミラノ(メディオラヌム)略奪。

540年 – メキシコのエルチチョン火山の爆発。
540年頃 – ベネディクトゥスが「ベネディクトゥスの修道規則(英語版)」を定める。
541年 – 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世がローマ共和政以来の執政官(コンスル)を廃止する。
542年 – 570年 – ヨルダン西部マダバの聖ゲオルギオス教会の床モザイクに中東地域の地図が描かれる(マダバ地図)。
543年
東ローマ帝国で「ユスティニアヌスのペスト」が大流行。
東ゴート国王トーティラがヌルシアのベネディクトゥスを訪問。
543年頃
デカン高原に前期チャールキヤ朝が成立する。
546年
東ゴート国王トーティラの軍勢がローマを略奪。
修道士コルンバがアイルランドのダロウ修道院を創設。
546年頃 – ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂が献堂される。
548年 – 梁で侯景の乱。翌年には建康が陥落し梁の武帝が憤死。
549年 – ラヴェンナ近郊のサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂が献堂される。

550年
東魏を滅ぼした高洋(文宣帝)が北斉を建国。
エジプトのフィラエ神殿が東ローマ皇帝ユスティニアヌスの命により閉鎖される。
550年頃
インドでグプタ朝が完全に滅亡。
ネストリウス派の修道士により中央アジアから東ローマ帝国に絹の製法が伝えられる(東ローマ帝国の養蚕伝来)。
552年
北アジアで柔然が分裂する。突厥が建国される。
日本に仏教伝来(『日本書紀』による)、疫病の流行、崇仏論争が起きる。
※中国の養蚕技術を導入して絹織物業を育成。
553年 – 第2コンスタンティノポリス公会議で「三章問題(英語版)」が討議されその著作が排斥される。
554年
東ローマ帝国がイタリアの東ゴート王国を征服。
東ローマ帝国が西ゴート王国領イスパニア南部に進軍。
ドゥヴィン教会会議で、アルメニア使徒教会がキリスト両性論を拒否し、非カルケドン派を宣明する。
西魏が江陵を陥落させ、梁の元帝を殺害。
管山城の戦いで新羅の真興王が百済の聖王を倒す。
555年
北斉の文宣帝が柔然を撃破。西魏に亡命した柔然の一派も突厥により殲滅される。
アギラ1世を倒してアタナギルドが西ゴート王に即位。
この王位継承争いで東ローマ帝国軍がカルタゴ・ノヴァやマラガそしてコルドバを征服。
557年
西魏を滅ぼした宇文覚(孝閔帝)が北周を建国。
梁に代わり陳がおこる。
コンスタンティノポリス大地震。
コンスタンティノポリス城壁や、ハギア・ソフィア大聖堂ドーム部分(翌558年に崩壊)に大きな被害が生じる。
558年 – サーサーン朝ペルシアのホスロー1世が突厥の室点蜜(イステミ)と同盟し、ブハラの戦いでエフタルを滅ぼす。
560年代
詳細は「560年代」を参照
560年 – 西ゴート国王アタナギルドがトレドに遷都。
562年
カラクムルの「空を見る者」王がティカルのワク・チャン・カウィール王を倒しマヤの覇権を握る。
任那地方を含む加羅諸国が新羅の支配下におかれ,日本の勢力は後退する。
563年 – 修道士コルンバがスコットランド西海のヘブリディーズ諸島アイオナ島に新たなアイオナ修道院を創建する。
564年 – 大英博物館所蔵のトゥルム遺跡出土の「トゥルム石碑1(英語版)」に刻まれている年はこの年のもの。
565年 – 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が死去。
567年 – ゲピド王国がランゴバルド人に征服され、国王クニムンドが殺害される。
568年
ランゴバルド人がイタリアに侵入し、アルボインを王とするランゴバルド王国を建国。
突厥の室点蜜が東ローマ帝国にソグド人首領マニアクの使節団を派遣する。
570年代
詳細は「570年代」を参照
570年
福岡県元岡古墳群で出土した「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の銘文を持つ鉄製大刀が作られる。
北斉の軍人婁叡の墓が山西省太原に作られる。
ランゴバルド系のスポレート公国・ベネヴェント公国が成立し、東ローマ帝国領南イタリアと拮抗する。
571年 – 北斉の高官徐顕秀の墓(中国語版)が山西省太原に作られる。
572年 – 欽明天皇死去、敏達天皇が即位。
574年 – 北周の武帝の廃仏が始まる(建徳の廃仏、三武一宗の法難の一つ)。
577年 – 北周が北斉を滅ぼし華北を統一する。
578年 – 世界最古の会社である金剛組(大阪市)が創設される。
579年 – 西ゴート王子ヘルメネギルドのカトリック改宗と、父王レオヴィギルドへの反乱。
580年代
詳細は「580年代」を参照
580年頃 – スラヴ人が北ギリシャに侵入する。
581年
中国で楊堅(文帝)が北周を滅ぼして隋を建国。「開皇律令」が公布される。
突厥の菴羅可汗がソグド語によるブグト碑文を建立。
582年
隋で都の大興城が整備され、仏教治国策として大興善寺が国寺として置かれる。
阿波可汗が西走し、突厥が東西に分裂する。
583年
隋の文帝が郡を廃止し、州県制を導入。
スラブ人やアヴァール人に追われた避難民によりペロポネソス半島のモネンバシア市が建設される。
584年
東ローマ皇帝マウリキオスがラヴェンナに総督府を設置。
司馬達等の娘善信尼らが日本最初の出家者となる。
585年
西ゴート王国がスエビ王国を滅ぼす。
敏達天皇死去、用明天皇即位。
586年 – メソポタミア北部ザグバの聖ヨハネ修道院で「ラブラの福音書(英語版)(フィレンツェ・ラウレンツィアーナ図書館蔵)」が作られる。
587年 – 用明天皇死去、蘇我馬子が仏教受容反対派の物部氏を滅ぼす(丁未の乱)、崇峻天皇即位。
588年 – 蘇我馬子の発願による日本最初の本格寺院の法興寺(飛鳥寺)の造営が始まる( – 596年)。
589年
隋が南朝の陳を滅ぼし、南北朝時代が終わり、中国が統一される。
第3回トレド教会会議で西ゴート国王レカレド1世がカトリックに改宗する。
590年代
詳細は「590年代」を参照
590年
ローマ教皇にグレゴリウス1世が即位。
アイルランドの修道士コルンバヌスがリュクスイユ修道院を建てる。
590年頃 – エルサルバドルのホヤ・デ・セレン遺跡がロマ・カルデーラ山の噴火によって埋没する。
591年 – 東ローマ皇帝マウリキオスがカルタゴに総督府を設置。
592年
隋で均田法が施行される。
太原南郊にソグド人を統括する検校薩保府の虞弘が埋葬される(隋代虞弘墓遺跡)。
崇峻天皇が暗殺され、推古天皇が即位。聖徳太子が推古天皇の摂政となる。
593年 – 聖徳太子の発願による四天王寺の造営が始まる。
594年
法隆寺五重塔心柱のヒノキ材の伐採年代が年輪年代法によりこの年(推古2年)のものと判明している。
トゥールのグレゴリウスが『歴史十巻(フランス語版)(フランク史)』を完成させ、この年に死去。
596年 – 教皇グレゴリウス1世により修道士アウグスティヌスがイングランド宣教に派遣される。
597年 – ケント王エゼルベルトによりアウグスティヌスは布教を許され、初代カンタベリー司教に任ぜられる。
598年 – 隋で科挙が行われる。高句麗遠征(隋の高句麗遠征)に失敗する。
599年 – 東突厥の啓民可汗に隋の義成公主が嫁ぐ。
599年頃 – 西突厥の泥利可汗を記念するソグド語碑文がイリ地方の昭蘇石人に刻まれる。
600年代
詳細は「600年代」を参照
600年
日本が第1回遣隋使を派遣(『隋書』倭国伝にみえるが、『日本書紀』に書かれていない)。
隋で三階教が邪教とされ弾圧される。
伝説・フィクションのできごと
502年 – 514年 – 梁の武帝は風狂の僧宝誌を尊崇し、その肖像画を描かせるべく三人の画家を遣わした。宝誌が画家たちの前で自らの顔に裂け目を入れ、顔の皮を左右に拡げると、中から十一面観音菩薩の顔が現れた。かくして画家たちが描いた肖像画を見て武帝は再度宝誌を追うが、その姿を二度と見ることはなかった(原型は南朝梁の慧皎『高僧伝』巻10。『宇治拾遺物語』他の記述に発展。京都市西住寺の宝誌和尚像も有名)。
502年 – 549年 – 梁の武帝の治世に活躍した画家の張僧繇が金陵安楽寺の壁画に龍を描き、ややあって目を書き入れたところ龍が画中から動き出し瞬く間に天上に駆け上っていった(張彦遠『歴代名画記』「画竜点睛を欠く」の故事。他の出典として『水衡記』)。
507年 – 越前国味真野に住んでいた、応神天皇の子孫である大迹部皇子(男大迹皇子・継体天皇)のもとに急使が届き、次の帝の候補として白羽の矢が立てられた。皇子は都への旅路を急ぐかたわら、この地に残すことになる恋人照日の前に使者を送り、手紙と愛用した花筐(はながたみ(花籠))を届けさせる(世阿弥の謡曲「花筐」)。
528年 – コネチカット州ハートフォード出身のハンク・モーガンは、兵器工場の職長であった。ある日モーガンは部下に殴られて気絶する。意識を取り戻すと目の前には騎士がいて、騎士に連れて行かれた先はキャメロットだった。モーガンは自分がかのアーサー王宮廷にいることを知る(マーク・トウェインの小説『アーサー王宮廷のヤンキー』)。
537年 – アーサー王の遠征中にモルドレッドが反乱を起こし、カムランの戦いで王が討伐した。しかし王は激戦の末、瀕死の重傷を負い、治療のためアヴァロンへ赴き、この地で最期を迎えることとなる。またアーサー王は未来のいつかに目覚めて人々を救うために帰ってくるため、ここで眠っているだけだという(「アーサー王帰還伝説(英語版)」。最古の記述は『カンブリア年代記』、ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王伝』などで発展)。
564年 – 洛陽が北周軍に包囲された時、敵の策謀を疑い門は閉じられたままだった。救援に来た北斉の将軍高長恭(蘭陵王)が門前で兜を脱ぎ顔を晒したところ、類いまれな美貌を見て門兵が扉を開いた。以後もその美貌が兵卒たちの士気を下げることを恐れ、高長恭は常に異形の仮面をつけて戦い続けた(雅楽「蘭陵王」)。
557年以降 – 581年頃 – 北周から隋の間に長安にいた若者杜子春が財産を使い果たし、仙人の鉄冠子のもとで修行に励むが、ふとした過ちで不老長寿の夢を絶たれてしまう(原作は唐の李復言の伝奇小説『続玄怪録』の「杜子春伝」。日本の芥川龍之介の翻案小説『杜子春』は時代・場所のほか物語に大きく変更あり)。
581年以降 – 広東省の羅浮山麓は梅の名所で、隋の開皇年間に将軍趙師雄がここである清楚な美女に出会い、歓談し酒を酌み交わした。酔いが覚めるとただ一人。美女は梅花の精霊であった(柳宗元「龍城録 趙師雄酔憩梅花下」に見える「羅浮仙伝説」)。
585年以前 – 日本の敏達天皇の時代、元興寺(飛鳥寺)の童子が怪死する事件が相次いだ。雷神により授かったとされる尾張出身の怪力の童子がその元興寺の妖怪を倒し、怪異は収まった。この童子こそ道場法師の前身である(景戒『日本霊異記』)。
時代の動向