3世紀

203年
セプティミウス・セウェルス帝がガラマンテス族を破り属州アフリカの「リメス・トリポリタヌス」を拡大する。
カルタゴにてペルペトゥアとフェリキタス(英語版)が殉教する。
フォロ・ロマーノのセプティミウス・セウェルスの凱旋門が建設される。
204年
遼東の公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置。
曹操が鄴を占領し、この地を根拠地とする。
207年
白狼山の戦いで、曹操が烏桓を破り、烏桓は弱体化。
208年
曹操が三公制を廃止して丞相と御史大夫を置き、自ら後漢の丞相となる。
赤壁の戦いで、劉備・孫権連合軍が曹操を破り、中国は三分の形勢となる。

211年 – ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが属州ブリタニアのエボラクム(現ヨーク)で死去。
後継のカラカラ帝が共同皇帝であった弟のゲタを粛清する。
212年 – カラカラ帝がローマ帝国の全自由民にローマ市民権を与える(アントニヌス勅令)。
215年
カラカラ帝によるアレクサンドリア市民虐殺。
陽平関の戦いで曹操が漢中の五斗米道教団に勝利。合肥の戦いで曹操が孫権に勝利。
216年 – ローマ市内のカラカラ浴場が完成する。
217年 – パルティア遠征中のカラカラ帝が暗殺され、マクリヌスがローマ皇帝になる。
218年 – アンティオキアの戦いでマクリヌス帝が敗北。
セウェルス家の巻き返しでエメサの神官ヘリオガバルスがローマ皇帝になる。
ヘリオガバルスはシリア・エメサの太陽神をローマのエラガバリウム神殿の主神として招来し黒石バエティルスを配置。
219年 – 樊城の戦いで、曹操・孫権連合軍が勝利し、敗北した劉備軍の関羽が処刑される。

220年 – 丞相で魏王の曹操が死去
後漢の献帝が禅譲し、曹操の子曹丕が皇帝となり魏を建てる(漢魏革命 – 265年)。
220~582 魏で陳羣の献策による九品官人法が導入される。
隋(ずい)の初期まで行われた官吏登用制度
※中央から州・郡に派遣された中世官が地方の人材を9等級に評定して中央に推薦し、これにもとづいて中央が官吏を任用する仕組み。
⇒有能な人材の登用を図ったが、有力豪族の子弟による高級官職の独占とその世襲化が進んで名門の家柄が固定化され、門閥貴族の形成を促した。

220年頃
ゴート族が東西に分裂。
南インドのサータヴァーハナ朝が滅亡。
221年 – 劉備が蜀(蜀漢)を建てる(- 263年)。劉備による孫権への東征の途上で張飛が横死する。
222年
孫権が夷陵の戦いで蜀に勝利し、自立して呉を建てる(- 280年)。三国時代が始まる。
ローマ皇帝ヘリオガバルスが暗殺され、従兄弟のアレクサンデル・セウェルスが皇帝となる。
224年 – ホルミズド平原の戦い(英語版)でペルシアのアルダシール1世がパルティアのアルタバノスに勝利。
226年 – ペルシアのアルダシール1世が「エーラーンの諸王の王(シャーハーン・シャー)」の称号を名乗る(サーサーン朝ペルシアの成立)。
227年 – 蜀の諸葛亮が「出師の表」を奉り、北伐に出陣。
228年 – アレクサンデル帝の近衛長官で法学者でもあったドミティウス・ウルピアヌスが近衛軍団の反乱で暗殺される。
229年 – 大月氏王波調(クシャーナ朝の王ヴァースデーヴァ(英語版))の使者が魏の明帝を訪れる。
波調は「親魏大月氏王」に任じられる。
229年頃 – 呉の孫権のもと交州刺史呂岱により朱応が扶南に派遣される(『扶南異物志』)。

230年 – ゾロアスター教がサーサーン朝の国教となる。
234年 – 五丈原の戦いで蜀の諸葛亮と魏の司馬懿が交戦。途上で諸葛亮が陣没し司馬懿は軍を退却させる。
235年 – アレクサンデル・セウェルスがマインツ(モゴンティアークム)で暗殺されセウェルス朝が断絶。
マクシミヌス・トラクスがローマ皇帝となり、軍人皇帝時代始まる( – 284年)。
またこの時代をローマ帝国内外の社会的・経済的変動を含めて「3世紀の危機」とも呼ぶ。
238年
遼隧の戦いで遼東の公孫淵が司馬懿に滅ぼされる。
内戦からローマで六皇帝が乱立(六皇帝の年)。
この内戦を鎮圧したゴルディアヌス3世帝が即位し政局は一時的な安定を取り戻す。
チュニジアのエル・ジェムの円形競技場が建設される。
239年
倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の明帝への奉献を願う。
帯方郡の太守である劉夏は使者を魏の洛陽へ送る。
明帝は詔して、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬・銅鏡100枚を授ける(魏の景初三年『三国志』魏書・東夷伝)。
240年代
詳細は「240年代」を参照
243年 – 倭王が魏に使者を送り、生ロ・倭錦などを献じる(魏の正始4年、『三国志』魏書・小帝紀、同東夷伝)。
244年
ミシケの戦いで、サーサーン朝のシャープール1世がローマ皇帝ゴルディアヌス3世を敗死させる。
魏の毌丘倹が高句麗に遠征し丸都城を蹂躙する。
245年 – 魏の少帝、倭の大夫に黄幢を授け、帯方郡を通じて伝授させることとする(魏の正始六年、『三国志』魏書・東夷伝)。
247年 – 倭の女王卑弥呼、倭の使者を帯方郡に遣わし、狗奴国との交戦を告げる。魏は、使者を倭に派遣し、詔書・黄幢を倭の大夫に与え、檄をつくって告喩する(魏の正始八年、『三国志』魏書・東夷伝)。
248年
ローマ皇帝ピリップス・アラブスによるローマ建国一千年祭が行われる。
呉の支配に対しベトナムで趙氏貞(趙嫗)の反乱が起こるが鎮圧される。
248年頃 – この頃、女王卑弥呼死す。その後、卑弥呼の宗女・壱与(または台与)が女王となる。
249年 – 魏の司馬懿がクーデターを起こし、曹爽らを誅殺(高平陵の変または正始の政変)。

250年
ローマ皇帝デキウスのキリスト教徒迫害。
ローマ司教ファビアヌスが殉教、後継者をめぐってノウァティアヌス派が分離する。
ローマ帝国で「キプリアヌスの疫病(英語版)」。
二宮事件で、呉の太子孫和が廃され、魯王孫覇が自殺を命じられる。
250年頃
サーサーン朝のシャープール1世がインドのクシャーナ朝を破る。
251年
アブリットゥスの戦いで、ローマ皇帝デキウスがゴート軍に殺害される。
王凌の乱(寿春三叛の一つ)。
255年
毌丘倹と文欽の乱(寿春三叛の一つ)。
257年
ローマ皇帝ウァレリアヌスのキリスト教徒迫害。
サーサーン朝がユーフラテス川南岸のローマ帝国の要塞都市ドゥラ・エウロポスを征服。
258年
諸葛誕の乱(寿春三叛の一つ)。
ローマ司教シクストゥス2世やカルタゴ司教キプリアヌスが殉教。
260年代
詳細は「260年代」を参照
260年
シャープール1世がエデッサの戦いでローマ帝国のウァレリアヌス帝を虜囚とする。
ポストゥムスがガリアで皇帝を名乗って独立(ガリア帝国)。
魏の皇帝曹髦がクーデタに失敗して殺害され、司馬昭が擁立した曹奐が皇帝(元帝)となる。
261年
ウァレリアヌス帝の共同皇帝だった息子のガッリエヌスが単独皇帝となり、キリスト教寛容令を発布。
鮮卑索頭部の拓跋力微が魏に入貢する。
262年 – アナトリア半島西南部の大地震で、エフェソスが大破する。
263年 – 魏が蜀を滅ぼす(蜀漢の滅亡)。魏の司馬昭が晋公となる。
264年 – 鍾会の乱。魏の司馬昭が晋王となる。
265年 – 魏の元帝の禅譲を受け、司馬炎が西晋の初代皇帝(武帝)となる( – 316年)。
266年 – 倭の女王が晋に使節を派遣する(『日本書紀』の神功紀66条に引く晋起居注。『晋書』武帝紀、西晋の泰始二年)。
267年 – パルミラ帝国の実権をゼノビアが掌握する。
268年 – 西晋が泰始律令を公布する。これは体系的な統一法典としての最初の律令。
268年/269年 – ナイススの戦いでクラウディウス・ゴティクス帝がゴート人に勝利しバルカン半島を制圧。
269年 – ウァレンティアヌス(聖ヴァレンタイン)がクラウディウス・ゴティクス帝の迫害を受けて刑死。
270年代
詳細は「270年代」を参照
270年 – パルミラのエジプト征服。
271年
サーサーン朝のシャープール1世がジュンディーシャープールに医学教育のための学院を設置。
ローマ皇帝アウレリアヌスが「アウレリアヌスの城壁」を建設( – 275年)。
273年頃 – マニが刑死。
274年 – アウレリアヌス帝が凱旋式で元老院から「帝国の再建者」の称号を授与される。
この年までにアウレリアヌス帝はパルミラ王国(273年)、ガリア帝国(274年)を平定しローマ帝国の再統一を達成。
同年アウレリアヌス帝はローマに「不敗太陽神(ソル・インウィクトゥス)」の神殿を建立する。
275年 – サーサーン朝遠征途上のアウレリアヌス帝が暗殺される。
280年代
詳細は「280年代」を参照
280年 – 西晋が呉を滅ぼし中国を統一する。
晋の武帝が「戸調之式」を発布し占田・課田制を開始する。
281年 – 戦国時代の魏の襄王の陵墓が盗掘され、『汲冢書』と呼ばれる竹簡75篇が発見される。
これには『逸周書(汲冢周書)』『竹書紀年』『穆天子伝』が含まれる。
284年
ディオクレティアヌスがローマ皇帝に即位( – 305年)。専制君主制(ドミナートゥス)を導入する。
ローマ帝国の属州ガリアでバガウダエの反乱が起こる。
290年代
詳細は「290年代」を参照
291年 – 晋で八王の乱が起こる(- 306年)。
292年 – グアテマラのティカルの記念碑29号に暦日が記録される。この時期よりマヤ古典期が始まる。
293年 – ディオクレティアヌスがローマ帝国のテトラルキア(四分割統治)を始める。
ローマ帝国には4つの道、その下の12の管区と、約100の属州が設置される。
297年
ローマ帝国でディオクレティアヌスによりインディクティオ(15周年暦)が導入される。
ローマ帝国東方副帝ガレリウスがサーサーン朝の都クテシフォンを制圧する。
300年代
詳細は「300年代」を参照
300年頃 – ローマ皇帝ディオクレティアヌスにより「カピタティオ(土地税)」「ユガティオ(人頭税)」の再編がなされる。
この頃、日本では銅鐸・武器系祭器による祭祀が終わる。北部九州の甕棺墓も衰退する。西日本各地に、特殊な壺形土器、器台形土器を供献した墳丘墓(首長墓)が現れる。