紀元前1400年代
紀元前1400年頃
カッシート王クリガルズ1世がエラムの都スサを征服。
アカイア人の侵入によりミノア文明が滅ぶ。
クレタ島出土の「ハギア・トリアダの石棺(英語版)」が作られる。
中央ヨーロッパは中期青銅器時代(西部は墳墓文化・東部はトシュチニェツ文化)。
「トロンハイムの太陽の馬車(ドイツ語版)(デンマーク国立博物館蔵)」が作られる。
紀元前1390年代
紀元前1390年頃 – カッシート王クリガルズ1世が「ドゥル・クリガルズのジッグラト」を建設。
紀元前1390年頃 – 紀元前1370年頃 – デンマークのヴァイレ近郊に「エクトヴィズガール」が埋葬される。
紀元前1380年代
紀元前1386年頃 – エジプトでアメンホテプ3世が即位。以後40年近い支配を継続。
ルクソール神殿やメムノンの巨像はこの時期に造営される。
2021年に発見が報告されたルクソール近郊テーべ・ネクロポリスのナイル川西岸の都市「アテン(Thehen Aten)(英語版)」もこの時期に造営される。
紀元前1384年 – 殷の般庚が安陽に遷都する。
紀元前1380年頃 – シリアの山岳地域にアブディ・アシルタを王とするアムル王国が建国される。
紀元前1370年代
紀元前1373年3月27日 – 甲骨文から殷の盤庚の治世中の支配地域において、月食があった事が確認されている。
紀元前1350年代
紀元前1350年頃
エジプトでアメンホテプ3世が死去。息子のアメンホテプ4世(アクエンアテン)が即位。
エジプトのテーベの神官であるネブアメンの墓が作られる(墓の壁画は大英博物館その他が所蔵)。
トルコ南部アンタルヤ県のウルブルン岬で交易船が沈没する(ウルブルン沈没船(英語版))。
この沈没船の船体は1982年に発見され、現時点では世界最古の沈没船とされている。
ヒッタイト王シュッピルリウマ1世がミタンニの都ワシュカンニを攻撃。
ミタンニは敗走し、その途中でトゥシュラッタ王は息子の一人に殺される。
この混乱でヒッタイトはアルタタマ2世を、アッシリアはシュッタルナ3世をミタンニの新王に擁立し対立。
ヒッタイトがアッシリアに勝利しミタンニの新王シャッティワザを擁立し条約を締結。
この条約にはインド・アーリア系のヴェーダの神ミトラ・ヴァルナ・インドラの神名が記録されている。
紀元前1340年代
紀元前1346年頃 – アメンホテプ4世の宗教改革が始まる。王は自らアクエンアテン(イクナートン)に改名する。
アメン神中心の多神崇拝を廃止、世界最初の一神教ともいわれる太陽神アテン崇拝を導入。
紀元前1343年頃 – エジプトの都がテーベからアマルナに遷される。
アマルナのアメンホテプ宮殿からはこの時代(アマルナ時代)の外交資料「アマルナ文書」が発見されている。
王妃ネフェルティティの胸像(ベルリン国立博物館蔵)はこの時代のもの。
紀元前1330年代
紀元前1334年頃 – アメンホテプ4世とスメンクカーラーが死去。ツタンカーメン王の即位。
この時期までにアマルナからテーベに還都。アメン神信仰が復活しアテン神信仰は廃絶する。
紀元前1330年頃 – ミタンニの支配下にあったアッシリア王アッシュール・ウバリト1世が独立(中アッシリア時代)。
紀元前1320年代
紀元前1325年頃 – ツタンカーメン死去。残された王妃アンケセナーメンと結婚した王族のアイが即位。
ツタンカーメンは王家の谷の陵墓に埋葬される。その陵墓は1922年のハワード・カーター発掘までほとんど盗掘をされていなかった。
アンケセナーメンは結婚が確定する前にその相手としてヒッタイト王子ザンナンザの派遣を依頼するが、その途上でザンナンザは暗殺される。
紀元前1320年頃 – エジプトからの疫病によりヒッタイト王シュッピルリウマ1世が死去。息子のアルヌワンダ1世が即位。
紀元前1310年代
紀元前1319年頃 – エジプト王アイ死去。将軍ホルエムヘブが王女ムトノメジットを娶って王となり、アマルナ時代の諸王の事績を抹消する。
紀元前1312年頃 – ヒッタイト王ムルシリ2世の治世9年頃の日食が記録されている。
紀元前1310年頃 – エジプト「死者の書」の代表作『フネフェルのパピルス』が作られる。
紀元前1300年代
紀元前1300年代後半 – ブルガリアの「ヴァルチトランの遺宝(英語版)」が埋蔵される( – 紀元前1200年代前半)。