独立戦争の背景→重商主義の強化
植民地側が本国イギリスに反発した理由は、18世紀中頃にイギリスがフランスとの激しい英仏植民地戦争を展開、ヨーロッパ本土での七年戦争(1756~1763年)とアメリカ大陸でのフレンチ=インディアン戦争でイギリスは勝利を占め、世界制覇の第一歩を築いたが、そこで生じた国債などの償還が必要となったため、植民地に対してさまざまな課税を強化してきた。
植民地側は、本国議会に代表を派遣していないにもかかわらず、植民地への増税が議会で決められたことに強く反発した。1765年には印紙法(条令)に対してヴァージニア植民地議会において、パトリック=ヘンリーの提唱した代表なくして課税なしが決議され、対立は明確になった。
独立戦争の経緯
ボストン茶会事件 1773年の本国政府による茶法(茶条令)制定に反発したボストン茶会事件が起こったことで直接的衝突へとエスカレートした。さらにその後のイギリスによるボストン港封鎖・強圧的諸条令と続いた締めつけに反発して、1774年に植民地側はフィラデルフィアで第1回大陸会議を招集、イギリス製品ボイコットを決定して、両者の緊張が高まった。
開戦
1775年4月、レキシントンの戦い
イギリス軍は植民地人が武器を貯蔵しているとしてマサチューセッツのコンコードに舞台を派遣した。警戒していた植民地人は、イギリス軍がレキシントンの町にさしかかったときに一斉に銃撃、さらにボストンに撤退するイギリス軍を追撃してゲリラ戦でその多くを殺した。この戦いからアメリカ独立戦争が始まった。この時の植民地側民兵は、服装もまちまちで、銃一丁を手に、数分で戦う準備ができたので、ミニットマンと言われた。
1775年5月、フィラデルフィアで第2回大陸会議
ワシントンを司令官と任命
ワシントンの率いる独立軍には植民地人が民兵として参加し、急きょボストンの救援に向かい、バンカーヒルの戦いでイギリス軍と衝突
民兵はよく戦ったが、組織的な戦いができず、また弾薬が不足したため押されるようになった。各地で起こった植民地軍とイギリス軍の戦いも、次第にイギリス軍が優勢
1776年1月にトマス=ペイン 『コモン=センス』
アメリカの独立が人間の権利にもとづく正義の戦いであると論じ、多くの植民地人に自信と勇気を与え、彼らが独立戦争に確信を持つことに大きく貢献した。
1776年7月 アメリカ独立宣言 大陸会議(昨年からの第2回が継続)
ジェファソンが起草したアメリカ独立宣言を7月4日に全会一致で採決
13植民地の代表が署名
独立宣言は、すべて平等な権利を持つ人間が、イギリスによる植民地支配という圧政から逃れるために新しい政府を造ることを表明している。
アメリカ独立戦争が終わったわけではなく、また黒人やインディアンの人権が無視されていることなどの問題は残る
7月の独立宣言がだされたとき、ワシントン麾下のアメリカ軍は約2万の兵力があった。しかしニューヨークの戦いでは壊滅的な敗北を喫し、年末にはわずか3000に減っていた。クリスマスの夜、ワシントンは少数の兵士を率いて凍りついたデラウェア川を渡り、対岸のドイツ人傭兵部隊を奇襲して敵を倒して持ちこたえた。大陸会議も、兵士への給料支給と西部の土地の無償提供を約束して兵力の増強を図った。しかし、イギリス軍はアメリカ軍の本拠地フィラデルフィアを占領し、大陸会議は西部に避難、町では王党派による独立派に対する報復が行われ、危機が続いた。ワシントン軍はフィラデルフィアの近郊バレーフォージという小村で飢えと寒さに耐えなければならなかった。
1777年10月サラトガの戦い
バーゴイン将軍に率いられカナダから南下したイギリス軍を迎え撃ったアメリカ軍はサラトガの戦いで大勝し、戦局は転換
フランスはラファイエットのような個人的な参戦の他は、アメリカに対する密かな武器・弾薬の支援にとどまっていたが、このアメリカ軍の勝利を知り、
1778年2月、ルイ16世が正式にフランスの参戦
これによってこの戦争はヨーロッパでも英仏間の戦争に拡大
1779年にはスペイン参戦
1780年にはオランダが参戦
ロシアのエカチェリーナ2世も武装中立同盟を掲げる
国際情勢はアメリカ独立に圧倒的に有利となった。
イギリスのコーンウォリス将軍はアメリカ独立の息の根を止めようとヴァージニアのヨークタウンに進攻した。しかしこの地は半島の先端の行き詰まりであった。ヴァージニアの地形を熟知するワシントンは、好機到来とばかり、ニュージャージーから急きょ南下し、ラファイエット指揮のフランス軍も参加して攻撃、さらにフランス海軍がチェサピーク湾の海上からイギリス軍を砲撃した。袋の鼠となったイギリス軍は降伏
1781年のヨークタウンの戦いの勝利
アメリカの独立は決定的
1783年パリ条約
アメリカは独立を認められ、さらに国境をミシシッピ川まで伸ばすという勝利で終わった。
義勇兵の参加
アメリカ独立軍には、フランスのラ=ファイエットがナポレオンの副官として活躍し、またポーランド人のコシューシコは技術者としての知識を活かして陣地の構築などでアメリカ軍を助けた。他にも、スペインのデ=ガルベス将軍はフロリダでイギリス軍と戦い、プロイセンのシュトイベンはワシントンに専門的な戦術を教えた。
アメリカ独立軍の勝利の要因
軍隊の兵力、装備、訓練などすべての点でアメリカ植民地側は劣っていたが、その戦意と土地をよく知っている点ではイギリス軍に勝っていた。また、ヨーロッパからの義勇兵も加わり、フランス、スペイン、オランダがアメリカ側に参戦し、ロシアを中心とした武装中立同盟が成立するなど、国際的にも有利に展開したことが勝利を得られた大きな理由である。
フランス革命の引き金
アメリカ大陸に於ける植民地回復の好機と考えたからであった。当初、駐仏アメリカ大使フランクリンの働きかけにもかかわらず、フランスはなかなか動かなかったが、1777年10月のサラトガの戦いで形勢が逆転し、アメリカ軍が優勢になったのを見きわめての参戦であった。フランスの財務総監ネッケルは増税によらず、借入を行い、大変な人気を得た。
ルイ16世のアメリカ参戦の決断は大きな損失をフランスにもたらした。アンシャンレジーム期のフランス国家財政はルイ14世の一連の戦争政策ですでに深刻な状態になっていたが、アメリカ独立戦争への参戦によって財政難は決定的となり、その危機を逃れる苦肉の策として1789年、三部会を召集したことからフランス革命が勃発する。奇しくもその年はアメリカ合衆国初代大統領ワシントンが就任し、アメリカ合衆国が本格的にあゆみを始めた年であった。