武帝

前2世紀の中ごろの漢の全盛期の皇帝

中央集権化の完成

郡県制
高祖、景帝に続いて郡県制の施行地を拡大し、ほぼ全土への統一的支配を実現
中国南部や朝鮮半島への郡県制を拡大

推恩の令 前127年
呉楚七国の乱の後も有力者を王国や侯国に分封することが続いていたが、武帝はそれらの諸侯王の封土や権限の削減を図り、実質的な中央集権化を進めた

郷挙里選
官吏登用制度

儒学官学化 五経博士設置
国家の理念として董仲舒の意見をいれて他の諸子百家の説を退け、儒家のみを尊重する路線(儒学の国教)を打ち出し、帝国の路線を明確化

金権政治

『史記』
紀伝体
後世の中国文書の模範となった

農本主義や民本主義の主張
牛耕が行われ、養蚕が盛ん
智恵を絞り技術をつくして利を追求などと示されている

帝国支配の拡大

前139年に張騫を大月氏国に派遣
対匈奴の積極策を模索

前129年から衛青には7度遠征
前121年には霍去病を派遣。西域の匈奴勢力を一掃
→敦煌以下の四郡(河西四郡)を置いて西域への進出拠点

前104年には李広利を大宛(フェルガナ)に派遣。西域にその勢力を伸ばす
→汗血馬得る

前112年には、ベトナムの南越<趙 佗>を滅ぼし日南郡九郡など
前108年には朝鮮にも侵出して衛子朝鮮<衛満>を滅ぼし楽浪郡以下の四郡を置いて直轄領

積極的な外征の背景 武帝の積極的な対外政策は、匈奴の「侵攻」を抑えるという防衛目的と国内に満ちていた困窮した農民たちの生活を安定させるために、新しい農耕地を開拓する必要に迫られてたという理由があった。衛青や霍去病の占領地でも、田卒といわれる兵士が耕地や潅漑用水の開発にあたり、戌卒といわれる戦闘専門の兵士がその防衛にあたっていた。

財政の安定策

さかんな外征と土木事業は帝国の財政を圧迫したため、財政再建を図る必要が生じた。そのため重税策を取り、財政の安定を図った。

•塩・鉄・酒の専売制 塩・鉄は生活に欠かせない食品と用具であり、ながく塩商人や鉄商人は巨利を蓄えていた。武帝の政府はこの大商人の利益を国家が奪うことをねらい、この両品を国の専売とした。まず前120年に塩・鉄を、前98年に酒を専売とした。この塩・鉄・酒の専売制度は国がその生産と販売を管理し、利益を独占して大商人を抑えることを目的としていた。茶はしていない。

•均輸法・平準法 武帝は財務官僚桑弘羊の提言を採用し、均輸官をおいて物資の余っている地方からは買い取り、不足する地域に売って利益を得る均輸法と、物価が低い時に物資を買い取って物価を高くし、騰貴した時に売って利益を得る平準法を採用した。これはいずれも商品売買という経済行為を国が直接行い、国が利益を得ようとする者であった。

•五銖銭の発行 増税・専売制などの前提となるのが貨幣制度の統一であった。漢では当初、秦の始皇帝の半両銭を踏襲したが、高祖の時、民間の鋳造を許可したため、一定量に達しない小さな貨幣が出回ったりして混乱した。五銖の銖とは重さの単位。唐代の初め621年に開元通宝が出現するまで、約700年間にわたり継続した。

売官・売位(国の官職や位を、金を納めた者に与えること)さらに贖罪(罪人から金を取って罪を許すこと。現代で言えば交通違反者に対する罰金や保釈金制度もあるから、漢の制度をけなすことはできないが)なども国の収入として盛んに行われた。
外戚 宦官台頭

★早稲田はここまで問われる
武帝の財政政策 •増税策 漢代の租税には、農地の収穫物に対して土地所有者に課税される田租(景帝の時、30分の1の定率となる)、15歳~56歳の男女に課せられる人頭税である算賦(年額一人一算=120銭)、申告制の財産税である算訾(さんし、評価額1万銭につき一算=120銭)などがあり、他に一般男子への年間30日の徭役(貨幣代納=300銭)があった。このうち、武帝時代には、財産税である算訾を、商人に対しては二千銭につき一算、手工業者には四千銭につき一算が加算して増税した。この商工業者にかけられた財産税を算緡銭といった。そのほか、舟や車、家畜などに対する増税が行われた。またこの増税の施行に当たっては虚偽の申告による脱税を防止するため、密告を奨励した。隠匿が発覚すると財産はすべて没収、そのものは辺境防備に追いやられ、密告した者には告発額の半額が与えられた。

武帝の財政政策は、国の財政を再建することにあり、その目的は充分に達せられ、漢帝国の財源は安定し、大帝国として前1世紀末までながらえることとなった。この武帝の増税政策の標的となったのは農民ではなく、大商人層であったことは注目。背景には、農業生産者を大事にし、商業を蔑視する儒教的理念もあったと思われるが、経済統制の思想は法家的発想でもあった。それよりも、国家が専売制や商品価格の管理、通貨発行によって経済を統制するというやりかたは、近代国家、あるいは極論すれば社会主義経済に類似している。古代における資本主義に対する社会主義的経済統制政策と言えるかも知れない。それを推進したのが桑弘羊などの財務官僚であったが、それに対して、はたして大商人層は強く反発していた。

武帝の統治の意義
武帝は前113年に、前140年に遡って、最初の年号「建元」を制定年号(元号)を制定することで皇帝は時間も支配することを示したもので、これ以降の中国の各王朝、周辺諸国の支配者に継承されていく。また武帝は、前104年に、秦の始皇帝以来の泰山での「封禅」の儀式(天帝から皇帝の地位を与えられたことの証しとして儀式)を行い、その年に初めて皇帝として暦を改定し太初暦を制定した。これは殷代以来の太陰太陽暦を継承し、歳首を正月とするものであった。
このように武帝の帝政は、中国の皇帝政治の原型を作り上げたと言っていい。武帝の統治は54年間におよび、前87年に死去した。中国の皇帝で半世紀を超えて在位したのは、武帝以外に、清朝の康煕帝と乾隆帝だけである。

2012年商学部

2021文学部