7世紀

601年
厩戸皇子(聖徳太子)が斑鳩宮を造る。任那回復のため、高句麗と百済に遣使する。
カンタベリーに大司教座が設置され、カンタベリーのアウグスティヌスが初代大司教に就任する。
602年
東ローマ皇帝マウリキオスがフォカスに帝位を簒奪され処刑される。
来目皇子・当麻皇子を新羅将軍に任命し、国造・郡司らの軍2万5000人を動員する。
百済僧観勒が来日し、天文・暦法・陰陽道を伝える。
603年 – 新羅攻撃を中止する。豊浦宮から小墾田宮に遷る。冠位十二階を制定する。
604年
冠位十二階制を施行する。厩戸皇子が十七条憲法を作る。朝礼を改める。
隋で煬帝が即位する。
605年
隋の煬帝が大運河の建設を命じる。
推古天皇が飛鳥寺の大仏の鋳造を発願する。
606年
ハルシャ・ヴァルダナが北インドにヴァルダナ朝を建国。
アクイレイア総大司教がアクイレイアのランゴバルド派とグラードのラヴェンナ派(東ローマ派)に分裂する。
607年
第2回遣隋使として小野妹子が派遣される。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」。
法隆寺が創建される(『上宮聖徳法王帝説』ほか)。国ごとに屯倉を置く。
ランゴバルド王アギルルフォが王妃テオドリンダの勧めでカトリックに改宗する。
王妃テオドリンダにより「ロンバルディアの鉄王冠」が整備され、モンツァ大聖堂が造営される。
608年
小野妹子が隋使裴世清らとともに帰国する。隋使が朝廷に参内し帰国する。
同年、小野妹子は再び隋に遣わされる。この時に高向玄理・旻・南淵請安ら8人留学する。
東ローマ皇帝フォカスがローマ教皇ボニファティウス4世にパンテオンを聖堂として寄進する。
この記念にフォロ・ロマーノにフォカスの記念柱が建てられる(ローマ皇帝によるローマ市の記念物としては最後のもの)。
カルタゴ総督ヘラクレイオス(父)が東ローマ皇帝フォカスに反乱を起こす。
609年
小野妹子ら帰国する。
教皇ボニファティウス4世がローマのパンテオンを聖母と諸聖人のための聖堂として改めて奉献する。

610年
隋に使を派遣する。高句麗僧曇徴が紙墨の技術を伝える。
カルタゴからヘラクレイオス(子)がコンスタンティノポリスに進軍。
フォカスが処刑され、ヘラクレイオスが東ローマ皇帝に即位(ヘラクレイオス朝の成立)。
ムハンマドがヒラー山で唯一神アッラーからの啓示を受ける(イスラム教の始まり)。
修道士コルンバヌスがフランク王国(ブルグント)から追放される。
611年 – 隋が高句麗遠征を開始( – 614年)。失敗に終わる。
613年
サーサーン朝のホスロー2世が東ローマ帝国領シリアを占領。
ネウストリア王クロタール2世がアウストラシア摂政ブルンヒルドを倒してフランク王国を統一し、首都をパリに定める。
アイルランド人ガルスがザンクト・ガレン修道院のもととなる庵を築く。
隋で楊玄感の乱。
614年
パリ勅令(英語版)がクロタール2世によって出される。
アウストラシア・ブルグント各分王国では宮宰が国王の代理人となり、その特別な地位が認められるようになる。
修道士コルンバヌスが北イタリアにボッビオ修道院を創設する。
サーサーン朝のホスロー2世が東ローマ帝国領エルサレムを占領する。
615年 – 隋の煬帝が雁門で東突厥の始畢可汗に包囲される。
617年 – サーサーン朝が東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲する。
618年 – 煬帝が司馬徳戡に殺害され隋が滅亡する。李淵が唐を建国。
618年頃 – コンスタンティノポリスでの都市民への穀物支給の廃止(「パンとサーカス」の終焉)。

620年 – 東ローマ帝国で公用語をラテン語からギリシア語に変更する。
621年
唐で「開元通宝」の鋳造が始まる。
「クルアーン」の伝承ではこの年にムハンマドが「夜の旅」を行う。
メッカからエルサレムの旅(イスラー)と、エルサレムから天界への旅(ミウラージュ)がある。
622年
厩戸皇子が斑鳩宮で死去。
ムハンマドがメディナへ遷る(ヒジュラ(聖遷)- ヒジュラ暦元年)。メディナに最初のモスクであるクバー・モスクが建設される。
東ローマ皇帝ヘラクレイオスがサーサーン朝への反撃を開始。
623年
アヴァールから独立した西スラブ人がサモ王国を建てる( – 658年)。
鞍作止利により法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像が作られる。
624年
バドルの戦いでムハンマドのメディナ軍がメッカ軍に勝利。ラマダーン月の始まり。
唐で「武徳律令」が制定され、均田制や租庸調制が定められる。
625年
ウフドの戦いでメッカ軍がメディナ軍に勝利。
イングランド東部イースト・アングリアのサットン・フーの船葬墓からこの年の銘の金貨が出土している。
626年
唐で玄武門の変が起こり、勝利した李世民が第2代皇帝太宗として即位( – 649年)(貞観の治)。
蘇我馬子が死去、その墓は石舞台古墳だと伝わる。
サーサーン朝・アヴァール人・スラヴ人によるコンスタンティノポリス包囲戦。
627年
ニネヴェの戦いで東ローマ軍がサーサーン朝軍に勝利。
ハンダクの戦い(塹壕の戦い)でメディナ軍がメッカ軍に勝利。
628年
推古天皇が死去。
真臘のイシャーナヴァルマン1世が扶南を滅ぼす。
フダイビーヤの和議。ハイバル征服。
東ローマ皇帝ヘラクレイオスがサーサーン朝の都クテシフォンを陥落させる。
サーサーン朝のホスロー2世が暗殺され、息子カワード2世はヘラクレイオスと和睦、サーサーン朝の占領地は返還される。
629年
唐の僧侶玄奘(三蔵法師)がインドへ向けて出発( – 645年)。
第34代舒明天皇が即位する。
首都コンスタンティノポリスヘ凱旋した皇帝ヘラクレイオスが、「バシレウス」の称号を始めて用いる。

630年
ムハンマドがメッカを征服。周辺各国にイスラム教への入信を呼びかける(遣使の年)。
東ローマ皇帝ヘラクレイオスがエルサレムに入城。
サーサーン朝から返還された「真の十字架」を奉献する聖墳墓教会を再建。
唐軍により頡利可汗が捕えられ東突厥が滅亡、唐は羈縻支配を行う。
唐の太宗は西域諸国から「天可汗」に推戴される。
第1回遣唐使として犬上御田鍬が派遣される。
632年 – 別離の巡礼の後にムハンマドが死去。
遺体は預言者のモスク(マスジッド・アルナバウィ)の墓に葬られる。
アブー・バクルが後継のイスラム指導者である初代カリフに選ばれる。
後継カリフの選出をめぐりリッダ(背教)の戦い(英語版)が起こる( – 633年)。
633年 – イスラム教徒のペルシア征服が始まる。
634年 – アブー・バクル死去により第2代カリフにウマルが選ばれる。
634年頃 – チャールキヤ朝のプラシーケン2世がナルマダー川の戦いでハルシャ・ヴァルダナの軍を破り南インドの独立を維持する。
635年以前 – クブラト・ハンにより黒海北岸のタマン半島のファナゴリアを中心とする大ブルガリアが成立する。
635年
ティカルの王子バラフ・チャン・カウィールがドス・ピラスの支配者になる。
ノーサンブリア王オスワルドの招きにより、エイダンがリンディスファーン修道院を設立する。
ペルシア人司祭の阿羅本らにより唐にキリスト教ネストリオス派(景教)が伝えられる。
唐の李靖が吐谷渾を征討する。
636年
ヤルムーク河畔の戦いで、皇帝ヘラクレイオス率いる東ローマ帝国軍がイスラム帝国軍に惨敗。
東ローマ帝国はサーサーン朝から奪回したシリアの領土を再び失う。
フランク王ダゴベルト1世により王家の墓所となるサン・ドニ教会がパリ近郊に設置される。
637年
カーディシーヤの戦いで、サーサーン朝がイスラム軍に敗れ、都のクテシフォンを占領される。
「貞観律令」が施行される。
638年
東ローマ皇帝ヘラクレイオスが「エクテシス(英語版)」を発布。
カリフのウマルにより派遣されたウトバ・イブン・ガズワーンがイスラム最初のミスル(軍営都市)のバスラを建設する。
639年
舒明天皇の命で百済大寺(吉備池廃寺)が建立される(天皇の命による日本初の官寺)。
サアド・イブン・アビー・ワッカースによりミスルのクーファが建設される。
640年代
詳細は「640年代」を参照
640年
イスラム帝国のシリア地方征服が完了。
唐が麴氏高昌国を滅ぼし、最初の都護府である西州都護府(後の安西都護府)を設置。
640年頃
中部ジャワにシャイレーンドラ朝が成立。
641年
舒明天皇が死去。
吐蕃のソンツェン・ガンポ王が唐の文成公主を妃として迎える。
アレクサンドリア包囲戦でイスラム軍が勝利。
東ローマ帝国はエジプトを喪失。イスラム軍がミスル(軍営都市)のフスタートを建設。
東ローマ皇帝ヘラクレイオス1世死去、後継の皇帝ヘラクロナスとその母マルティナが追放され、コンスタンス2世が即位。
玄奘がハルシャ・ヴァルダナ王臨席のもとカナウジ城での論戦に勝利し、プラヤーガの「無遮大会」に参加する。
642年
ニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝がイスラム帝国に大敗する。
レイでスィヤーワフシュを首領とするゾロアスター教徒の反乱が起きる。
第35代皇極天皇即位。船氏王後墓誌(三井記念美術館蔵)が作成される。
高句麗の淵蓋蘇文が栄留王を弑害し、宝蔵王を擁立。
643年
蘇我入鹿が山背大兄王一家(上宮王家)を滅ぼす。皇極天皇が飛鳥板葺宮に遷る。
唐の太宗の長男承乾が廃太子となる。
ランゴバルド王国で最初の法典である『エディクトゥム・ロタリ(英語版)』が制定される。
拂菻王波多力(東ローマ皇帝コンスタンス2世か)の使者が唐に来訪。
644年
ウマルが暗殺され、第3代カリフにウスマーンが選ばれる。
富士川周辺で大生部多による常世神と称して虫を祀る信仰が流行する。
信濃国善光寺が建造される
645年
玄奘が帰国し長安に到着。
中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中で暗殺し(6月12日)、蘇我蝦夷は自殺する(乙巳の変)。
皇極天皇が譲位し、第36代孝徳天皇が即位。難波長柄豊碕宮へ遷都( – 655年)。
古人大兄皇子が謀反の疑いで処刑される。
646年
改新の詔を宣する(大化の改新)。大化の薄葬令が出される。
僧道登が宇治橋を架けたと記す日本最古の石碑が建てられる(宇治橋断碑)。
647年 – ハルシャ・ヴァルダナ王の死によりヴァルダナ朝の支配が崩壊し、北インドは混乱状態になる。
唐の使節王玄策らが北インドでアラナシュの反乱に遭遇、吐蕃らと協力してアラナシュを捕縛し唐に連行する。
648年 – 東ローマ皇帝コンスタンス2世が「テュポス」を発布。
649年 – 蘇我倉山田石川麻呂が讒言により山田寺にて自害する。

650年頃
スマトラ島にシュリーヴィジャヤ王国が成立。
650年
内モンゴルの東突厥の旧領フフホト付近に翰海都護府(後の単于都護府)を設置。
651年
オクサス川の戦いで敗北したサーサーン朝皇帝ヤズデギルド3世が暗殺される。
事実上サーサーン朝ペルシアが滅亡、皇子ペーローズ3世は唐に亡命する。
イスラム帝国カリフのウスマーンの命令で『クルアーン(コーラン)』正典が編纂される(ウスマーン版)。
「永徽律令」が施行される。
652年
玄奘三蔵がインドから招来した経典や仏像を保存するため長安近郊の大慈恩寺に大雁塔が建てられる。
653年
孝徳天皇と中大兄皇子とが不和になり、中大兄皇子以下は飛鳥に還る。
東ローマ皇帝コンスタンス2世が教皇マルティヌス1世を捕縛しクリミア半島のケルソンに追放する。
唐で孔穎達・顔師古らにより『五経正義』180巻が選定される。
大慈恩寺大雁塔に書家褚遂良による「雁塔聖教序」の石碑が置かれる。
654年
西ゴート王レケスウィントが属人法を廃止し「西ゴート法典(リベル法典・裁判法典)」を公布する。
655年
皇帝コンスタンス2世率いる東ローマ帝国軍が小アジアのリュキアの海戦(帆柱の戦い)でイスラム帝国軍に惨敗。
唐の高宗の皇后王氏が廃され、武照が皇后に冊立される。
皇極天皇が重祚し、第37代斉明天皇となる。
656年 – ウスマーンが暗殺され、アリーが第4代カリフに選出される。
この選出をめぐりイスラム帝国で第一次内乱が勃発( – 661年)。ラクダの戦いでアーイシャがアリーに敗北。
657年
唐軍により沙鉢羅可汗が捕えられ西突厥が唐の羈縻政策下に置かれる。高宗のこの時期に唐の領土は最大となる。
スィッフィーンの戦い、アリーとムアーウィアの間で勝敗はつかず。
ドゥーマト・アッ・ジャンダルの和議が結ばれるが、アリーからハワーリジュ派が離反。
658年
有間皇子が謀反の疑いで処刑される。
阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、粛慎を平定する( – 660年)。
東ローマ皇帝コンスタンス2世がバルカン半島南部のスラブ人を制圧。
この時のスラブ人は小アジアに入植させられ、帝国防衛のためのテマ制(軍管区制)の原型が形成される。
659年
斉明天皇が出雲国造に命じて「神の宮(出雲大社)」を作らせる。

660年
新羅と唐の連合軍(唐・新羅の同盟)が百済を滅ぼす。
唐で「皇帝」と「皇后」をそれぞれ「天皇」と「天后」に改名。

661年
カリフのアリーがハワーリジュ派に暗殺される。
シリア総督のムアーウィヤがカリフとなり、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立。
百済復興支援のため斉明天皇が九州に出兵、百済王子豊璋らと日本軍が渡海。
筑紫国朝倉橘広庭宮にて斉明天皇が死去。中大兄皇子は皇太子のまま称制を継続。
モン族のハリプンチャイ王国が成立する。
663年
白村江の戦いで、日本が唐・新羅連合軍に大敗する。
吐蕃の宰相ガル・トンツェンが吐谷渾を征服する。
東ローマ皇帝コンスタンス2世がローマに赴き教皇ウィタリアヌスと会見。
コンスタンス2世は南イタリアからシチリア島に向かい、シラクサに宮廷を置く。
664年 – ウィットビー教会会議が開かれ、ローマ式典礼がケルト式典礼より優位に立つ。
665年頃 – クブラト・ハン(英語版)が死去し大ブルガリアの部族連合が崩壊する。
北方のヴォルガ川中流域にはヴォルガ・ブルガール人、西方のバルカン半島にはドナウ・ブルガール人が拡大する。
666年 – 唐の高宗が武后とともに泰山にて封禅を行う。
667年 – 中大兄皇子が近江国近江宮(大津宮)へ遷都( – 672年)。
668年
東ローマ皇帝コンスタンス2世が滞在中のシチリア島で暗殺される。
唐が高句麗を滅ぼし、平壌に安東都護府を設置する(唐の高句麗出兵)。
中大兄皇子が即位し、第38代天智天皇となる。
尾張国の熱田社(熱田神宮)から新羅僧の道行が草薙剣を奪取する(草薙剣盗難事件)。
669年
内大臣中臣鎌足が大織冠を授けられて、「藤原」の姓を賜わり、翌日に死去。
藤原鎌足の発願で山城国山階寺(興福寺の前身)が創建される。

670年
全国的に戸籍をつくる(庚午年籍)。
聖徳太子時代に創建された法隆寺(若草伽藍)が炎上する。7世紀末までに再建がなされる。
ウマイヤ朝軍がチュニジアに進軍し、ケルアン(カイラワーン)市の建設に着手( – 675年)。
671年
唐僧義浄が渡印のため広州を出航し室利仏逝(シュリーヴィジャヤ王国か)に到着。
新羅と唐が対立する(唐・新羅戦争)。
大友皇子が太政大臣となる。天智天皇が水時計(漏刻)を作らせ時報を始める。
672年
天智天皇死去。
大友皇子が近江宮の首班となる(第39代弘文天皇)。
壬申の乱が起こる。
大海人皇子が大友皇子を倒し、第40代天武天皇として即位。
近江宮から飛鳥浄御原宮に遷る。
673年
ウマイヤ朝海軍がキュジコス半島を前線基地として確保。
ここから東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを678年まで継続して包囲。
東ローマ軍はギリシア火でこれを撃退。
675年 – 天武天皇が日本で最初の肉食禁止の詔を出す。
676年 – 伎伐浦海戦で唐を破った新羅が朝鮮半島を統一。
678年 – 西安から出土した百済系将軍「祢軍」の墓誌(拓本)にこの年の唐の年号「儀鳳3年」と最古の「日本」という国号の記述が見られる。
679年 – 唐がタリム盆地のスイアブを占領、碎葉鎮と改称し、安西四鎮の一つとなる。
スイアブはかつての西突厥の根拠地で、キルギス共和国のアク・べシム遺跡がそれに当たる。

680年
カルバラーの戦い(カルバラーの悲劇)。
第3コンスタンティノポリス公会議で単意論が排撃される。
オングロスの戦いで東ローマ軍がブルガール人に敗北。
唐で皇太子李賢(章懐太子)が廃される。
天武天皇が薬師寺建立の発願をする。
681年
飛鳥浄御原令の編纂を開始する。
ブルガール人アスパルフが第一ブルガリア帝国を建国し、プリスカを都に定める。
682年
東突厥の阿史那骨咄禄が唐の羈縻政策を脱して可汗を名乗り、第二可汗国が成立する。
ウマイヤ朝軍のウクバ・イブン・ナーフィウがマグリブを制圧し大西洋に到達する。
ドス・ピラスの王女ワック・チャニル・アハウ(英語版)(「6の空」)がナランホに新王朝を建てる。
683年
メッカにてイブン・アッズバイルがカリフを名乗る。
ウマイヤ朝が反乱軍と激突しメッカのカーバ神殿が炎上(アルハッラーの戦い)、第二次内乱( – 692年)が勃発。
マヤのパレンケ「碑文の神殿」の地下室にパカル王が埋葬される。
唐の皇帝高宗が死去し、息子の中宗が継ぐ。
683年頃 – 天武天皇の下で富本銭が発行される。
684年
唐の中宗が退位させられ、睿宗が即位。徐敬業の反乱。
白鳳地震。八色の姓の制定。
685年 – ムフタールの反乱。
686年 – 天武天皇が死去し、第41代持統天皇が即位。大津皇子が謀反の疑いで処刑される。
687年 – テルトリーの戦いで、アウストラシア宮宰ピピン2世(中ピピン)がネウストリア宮宰ワラットを倒し、フランク王国の実権を握る。
688年 – 東ローマ皇帝ユスティニアノス2世とウマイヤ朝カリフのアブドゥルマリクとの間でキプロスを共同統治することに合意。
689年 – 飛鳥浄御原令を発令。

690年
戸令により庚寅年籍をつくる。第1回伊勢神宮内宮式年遷宮。
唐で高宗の死後、皇后(則天武后)が自らを聖神皇帝と称し「天授」と改元する。
国号を「周」とし唐王朝は一時断絶( – 705年)。洛陽を神都と改称して遷都し、中国各地に大雲経寺を設置。
東ローマ皇帝ユスティニアノス2世の命によりパウリキアヌス派(英語版)の創始者であるアルメニア人コンスタンティノス・シルヴァノス(英語版)が火刑に処される。
691年
則天武后が「仏先道後」の国是を定め、仏教保護政策を進める。
東ローマ皇帝ユスティニアノス2世がトゥルロ教会会議(英語版)を開催する。
692年
ウマイヤ朝カリフのアブドゥルマリクによりエルサレムの岩のドームが完成する(688年 – )。
セバストポリスの戦いで、ウマイヤ朝軍が東ローマ軍を破る。
693年 – ウマイヤ朝カリフのアブドゥルマリクがダマスカスでイスラーム王朝初の金貨(ディナール)を打刻させる。
694年
持統天皇が藤原京に都を移す。
唐にマニ教が伝来する。
695年 – レオンティオスの政変で東ローマ皇帝ユスティニアノス2世が捕縛され、鼻を削がれてクリミア半島ケルソンへ追放される。
696年
ルペルトがザルツブルクにドイツ語圏最古の聖ペーター教会修道院を建設する。
則天武后が嵩山にて封禅を行う。
697年 – 持統天皇が譲位し、第42代文武天皇が即位する。
698年
ウマイヤ朝のハサン・イブン・アル・ヌゥマーンがカルタゴの戦いで東ローマ帝国に勝利。北アフリカのほぼ全域を制圧。
靺鞨人大祚栄が震国(後の渤海)を建国。
7世紀
コロンビアのボゴタ地方にチブチャ人が定住し、チブチャ文化(ムイスカ文化)が成立する( – 1600年代)
エルドラード伝説のもととなった「ムイスカの黄金の筏(英語版)」