諸子百家

諸子百家

中国の春秋・戦国時代の多くの思想家、学者集団。儒家、道家、法家などのほか、多数の学者が輩出した。
春秋・戦国時代の前6~前3世紀に活動した、思想家、学者の集団の総称。「子」は先生、「百」は多いという意味。儒家、墨家、農家、道家、陰陽家、法家、名家、縦横家、雑家、小説家の十家に分けられる。他に、兵家をあげることもある。
春秋から戦国時代ににかけて、旧来の社会秩序が崩壊し、新しい国家理念や道徳、世界観が求められるようになった。また互いに対立し、それぞれ富国強兵を目指す各国の諸侯は、競ってそのような思想家を求め、身分や血統にとらわれずに人材を登用しようした。そのような状況を背景に、前4世紀に最も活動が活発になり、各国を遊説して自己の説を主張し、自由に議論しあう「百家争鳴」の状況が生まれた。なお、諸子百家の分類は、その当時に存在したわけではなく、前漢末の劉向が戦国時代の文献(古文)を復元研究して分類し名付けたものである。

儒家

孔子
儒家の祖
人間愛である「仁」、社会秩序を意味する「礼」を重視
孝、悌などの家族道徳を守る治国平天下をめざす
西周を理想的な時代ととらえ、魯の国政改革に参加
徳治主義

孟子 性善説 仁 易姓革命
荀子 性悪説 礼 法治主義

秦の始皇帝
統一国家樹立の観点から法家を重視し、儒家を厳しく弾圧した(焚書坑儒)

漢の武帝
儒学者董仲舒の意見を容れて、儒学を官学として採用
→それ以後は各王朝に保護され、中国の最も正統的な学派となる
『詩経』『書経』『易経』『礼記』『春秋』の5つの経書(けいしょ)を最も重んじられ、「五経」として定められた。

墨家墨子を祖とする諸子百家の一つ。戦国時代の諸侯に対し絶対的な平和を説く。一種の宗教団体として活動した。
中国の戦国時代の諸子百家のひとつ。墨子の教えを奉じる人々の一派。彼らは師の兼愛説などをかたくなに守ったので、「墨守」と言う言葉が生まれた。
墨子を教祖とする宗教団体
墨子は非戦論者・平和論者としてあらわれたが、なおも血族関係の意識が強く残る当時の中国の社会においては、自由主義者・合理主義者という点だけでは改革は難しかった。そこで墨子は、合理主義者としての一面の他に、宗教者としての一面を持ち、神を強く崇拝し、その権威によって乱世を治めるために、法律という形で人民に教え、社会の秩序を維持しなければならないと考えた。そこでかれは、みずから教祖となって弟子たちを統率し、厳格な団体的な訓練を施し、一つの宗教的な団体を形成した。この団体は強固で、かれの死後も絶えずその後継者を教祖として選び、その教祖の言葉を至上命令として絶対的に服従した。「墨守」はそのような師の教えを忠実に守る墨子学派の行動を諷刺した言葉だった。
墨家思想の盛衰
墨子の生前には「墨儒」という言葉もあったように、墨子は儒家の思想家とも交わり、論争はするけれども対立する関係ではなかったが、墨子の死後、宗教団体としてあり続けるうちに、次第に儒教とは相容れない、敵対する思想団体になっていき、戦国中期には墨家思想と儒家思想は対立するに大思想潮流となった。
しかし、戦国時代が戦国の七雄の時代を経て秦によって統一され、さらに漢王朝が成立すると、思想の主流は法家や儒学・儒教などが占めるようになり、ややもすれば特異な異端的思想とされた墨家は衰えてしまった。中国では長い間、墨家の存在は忘れ去られていたが、1949年の中華人民共和国が成立すると、その新しい社会主義国家建設のなかで、墨子の合理主義、科学技術の重視などの思想は唯物論と認識されて復活し、盛んに研究されるようになった

農家
農業を基盤とした社会の運用を説く

許行
農業の重要性を三皇の一人神農の教えであると説く。
等しく農業に従事する
物価を均等にする
平等社会を主張したが大きな思想集団とはならなかった。

道家
儒家の礼や徳の重視を人為的な道徳として否定し
無為自然を説く
個人的離脱
老子や荘子を祖

老子・荘子(あわせて老荘)
小国寡民を理想の国家
中国の民間の神仙思想や不老不死を願う信仰と結びついて「道教」となる。
→ 老荘思想

陰陽家自然現象を陰陽交替で説く

古代中国の戦国時代に活躍した諸子百家の一つ。天体の運行と人間社会のありかたとの関連を説く一派。自然現象の変化を陰と陽の交替という原理で説明するのが陰陽説。その影響を受けて、前4世紀末の斉の鄒衍(すうえん)が説いたのが五行説で、物質の根源を木・火・土・金・水の5要素からなり、その5要素が連続的に循環し変化すると考えた。鄒衍は五行説によって帝王の徳を分け、それによって王朝交替の理論を説いた。それによれば、周王室は火徳であり、それに勝った秦王室は水徳であるとされる。漢代には陰陽説と五行説が結びつき陰陽五行説となり、その後の中国人の俗信となって現代にも生き残っている。

法家性悪説に立ち、法による統治を重視する

孔子や孟子の儒家の説く礼によって国を治める徳治主義では人民を統治することは困難と考え、成文法によって罰則を定め、法と権力によって国家を治めようと考えたのが法家の人々である。彼らの思想で言えば、なによりも公正で厳格な法の執行が為政者にとってもっと必要なこととされた。
斉の管仲
魏の李悝(りかい)

秦の商鞅
法治主義
秦の孝公に仕え什伍の制、郡県制を実施
韓非
理論化したのは儒家ではあったが孟子とは異なって性悪説にたった荀子とその弟子のであった。法家の思想は、
李斯
始皇帝に信任されて秦の統一国家建設の理念とされた

名家論理を重視

古代中国の戦国時代に活躍した諸子百家の一つ。名とはものの名前のことで、概念ともいえる。ものには名だけなのか、実体があるのか、という議論を進めた人々を言う。その一人公孫竜は「白馬は馬に非ず」と言ったことで知られるが、次第に観念的な議論に陥り、中世ヨーロッパの普遍論争のような哲学的な発展は見られなかった。

縦横家
戦国時代の国際政治戦略を説く

蘇秦 合従策
強国の秦に対して他の6国が連合してあたるべきであると説いた

張儀 連衡策
各国に秦との個別の同盟の締結を説いた

★合従と連衡
一時期は蘇秦の説く合従策が実を結んで、燕、斉、韓、魏、趙、蘇の南北の6国の同盟関係が成立し、秦は函谷関から東に出ることができないでいたが、蘇秦が斉で政争に巻き込まれて殺されてからは、張儀の説く連衡策になびき、秦と個別同盟を結ぶようになった。秦は合従策が敗れるのを待ち、近くの国をまず攻撃し、遠国とは親交するという遠交近攻策を取り、各個撃破を進めて行き、ついには戦国時代の統一に成功することとなる。
策士たちの言行や権謀術数を伝える書が『戦国策』であり、この書の伝える時代を「戦国時代」という

兵家
兵法、戦略を説く

孫子
古代中国の戦国時代に活躍した諸子百家の一つ。戦国時代の各国のとるべき兵法や軍備のあり方、戦略について説をなした人々。有名な『孫子』(春秋時代の呉の孫武と、戦国時代の斉の孫臏(そんひん)がいる)、呉子(呉起)など。

2012国際教養
2004教育