宋(10〜11世紀)の社会経済

チャンパー米→早稲
唐で始まり宋で進展

不適切選択肢
とうもろこしとさつまいもが中国に伝わった
これらは明代以降の時期なので注意。
伝わったのは16世紀以降、アメリカ大陸の「新大陸」発見と交易を通じて中国に伝わった

10~11世紀の五代から宋の成立までの時期は中国史およびその周囲の東アジアの大きな転換点

(1)貴族の時代から庶民の時代へ:
魏晋南北朝から唐の時代に形成された貴族(門閥貴族)は唐末にその基盤であった荘園制と共に没落し、庶民社会へ

庶民は律令制下均田制の崩壊
上層の新興地主層(形勢戸)
中・下層の都市民、農民(小作人=佃戸)

上層庶民
地主かつ士大夫や読書階級で知識人
科挙に合格した官僚として支配階級を形成し※貴族と異なり原則として世襲ではない

(2)皇帝独裁政治の時代:唐末から五代の節度使による武断政治は宋の成立と共に解体さ
皇帝独裁体制のもとで文治主義に転換

国家運営は皇帝のもとで、財政を主として文人官僚
尚書省・中書省・門下省の三省→中書省と門下省を合体させ中書門下省(政事堂)
皇帝権力を支える官僚を得るために科挙を整備して殿試を設けた
軍事行政機関 枢密院独裁支援
皇帝直属の近衛兵として禁軍

(3)貨幣経済の時代:資源の開発と技術の革新が進み、各地の特産品と生まれて地域分業が行われ、流通経済が発展した。

銅銭である宋銭が大量に鋳造→国内流通→海外流通
高額取引には銀も用いられた
貨幣の不足を補う紙幣として手形の交子会子が流通するようになった。
北宋首都の開封(黄河と大運河の接点付近)は水運による商業網の中心として繁栄

地方には商業都市である多くの草市・鎮が生まれ、商工業者はそれぞれ行・作という同業者組合を結成した。
手工業の発展で陶磁器の産地の景徳鎮が生まれた
青磁白磁生産→海外へ

(4)海外交易の時代
イスラーム商人中心の南海交易に中国商人も積極的に進出
このような経済発展を背景に中国商人による盛んな海外との交易が行われ、彼らのジャンク船は遠くインド洋まで活動をしていた。この海外との交易は江南の開発が進んだ南宋、中国の統一が回復された元の時代にも引き継がれ、ムスリム商人が広州、泉州、明州、温州、杭州などの港市に往来した。これらの海港には貿易管理、徴税を行う役所として市舶司が置かれた。ムスリム商人は唐代以降、大食(タージー)といわれ、主要な港市に居住地として蕃坊を設けてた。また、三仏斉(現在のスマトラ島を中心とした国家。シュリヴィジャヤ王国の後身ともいわれるが異説もある)などは盛んに宋に朝貢した。一方、内陸では、周辺の遊牧民との間で、平時においては盛んに絹馬貿易(茶馬貿易)が行われていた。

(5)新たな民族の時代:華北に進出した契丹や女真の国家はかつての五胡と異なり、漢文化に同化せずに独自の民族的性格をそのまま中国に持ち込んできた。そのような周辺民族の活動を見て、宋には漢民族として自覚が生まれたと言える。宋は遼や金を対等な交渉相手とせざるを得ず、その交渉は宋の政治に直結した。1004年には遼との澶淵の盟を結び、和平を実現したが、遼への贈与の負担は財政を圧迫し、西方に起こった西夏との1044年の慶暦の和約も宋の財政を圧迫し、王安石の改革などの要因となった。

(6)新しい文化の展開:宋代の社会変動はそれまでの貴族文化に代わり、新しい庶民文化を生み出した。その担い手は、学問や文学、絵画においては上層庶民階級の士大夫であるが、庶民もまた手工芸品(陶磁器)や芸能などで新しい文化を生み出した。特に儒学においては、唐までの訓詁学を手とした形式的な理解にとどまっていた段階から、宋学という世界観や精密な論理をきわめていく学風が起こった。 → 宋代の文化