渤海 遼 燕雲十六州 西夏

渤海
7世紀末、シベリア南部の日本海岸にツングース系靺鞨族の大祚栄が建国した。唐王朝が中国を統一した7世紀ごろ、その東北の満州地方には、契丹(モンゴル系)と靺鞨が台頭してきた。靺鞨はツングース系で高句麗と同系統の民族であった。契丹は唐の太宗に服属し、その高句麗遠征に協力した。一方の靺鞨は668年、高句麗が唐の攻勢を受けて滅亡した後、遼東地方で大祚栄が自立して、高句麗を復興させるとして、698年に震国(または振国)を建て、高王と称して即位した。唐では則天武后の時代だった。大祚栄は713年、唐から渤海郡王に冊封されたが、一般に698年を渤海国の建国年としている。ただし、正式に渤海国となったのは762年の第三代大欽茂の時である。渤海というのは、前漢時代におかれた渤海郡に由来する。
注意 渤海と渤海国 「渤海国」とは別に、「渤海」は中国大陸と遼東半島、山東半島に囲まれた海域を示す海洋名でもあるので混同に注意しよう。

海東の盛国
渤海は唐の冊封体制に組み込まれ、頻繁に遣唐使を派遣、唐の律令制度と仏教文化を積極的に受け入れ、唐風の文化が開花した。そこで、唐は渤海を「東海の盛国」と呼んでいる。ただし、渤海は、高句麗の後継国家であることを強く意識していたので、通常は冊封体制下の国家は中国の年号を用いるところを、固有の年号を用いるなど独自性も主張していた。
都は8世紀中頃、第3代大欽茂の時に、上京竜泉府(東京城とも云う)に遷都し、唐風の都城を建設した。また、唐の制度をまねて、東京龍源府、南京南海府、西京鴨緑府、中京顕徳府を建設し、合わせて5都市で統治する複都制をとった(5市のうち、西京と南京の正確な位置はわかっていない)。
都の上京竜泉府には多くの仏教寺院が建造されていた。その多くは今は失われているが、唯一、高さ6メートルに及ぶ巨大な石灯籠が残されており、渤海の仏教文化の隆盛を偲ぶことができる。また唐―渤海―日本をめぐる、僧侶の留学や往来が活発

渤海の領土と国家
渤海には靺鞨の多くの部族が服属していたが、はじめその北方には渤海に服属せず、唐と結ぶものなどもあった。渤海は唐との関係を修復しながら北方の靺鞨(黒水靺鞨)などに対する征服活動を広げ、8世紀中頃には北は黒竜江に接し、現ロシア領の沿海州(ウスリー川の東)南部から、中国の東北地方(旧満州の遼寧省、吉林州、黒竜江省)の東半分、さらに鴨緑江の南の平壌を中心とした朝鮮北部に及んだ

10~12世紀、モンゴル高原に興った北方民族が建てた契丹が、中国北部を支配した称した中国風の国号。

遼・北宋・西夏
916年、耶律阿保機(太祖)がモンゴル高原で活動していた北方系の遊牧民部族を統合して、中国の東北辺からモンゴル高原東部にかけて契丹を建国

唐末の混乱を逃れてきた漢人を受け入れ強大となり、926年に東の渤海を滅ぼし、さらに南下して漢民族の領域を脅かし、936年には燕雲十六州を獲得、さらに五代~宋の王朝と抗争した。

国号は本来契丹であり、遼と称したのは947年以降であり、その後も契丹という国号に戻っている

遼(契丹国)の都としては現在の内蒙古の上京臨潢府(じょうけいりんこうふ)を中心とする5京(副都)があり、燕雲十六州獲得後はその中に位置する燕京も副都の一つ南京析津府となった。

燕雲十六州の獲得

雲は大同を指す
太祖の次の太宗の時、中国の五代の一つ後晋を支援した見返りに、936年に燕雲十六州を獲得(石敬とう)、華北に進出し、946年には後晋を攻撃して滅ぼし、開封に入城して一時中国全土を支配、翌947年に国号を遼とした。しかし、漢民族の抵抗を受けて中国全土の支配を放棄し、モンゴル高原東部と華北のみを支配することに戻る。その後は五代の後に中国南部を統一した宋(北宋)と対峙する存在となった。宋はしばしば燕雲十六州の奪回をめざしたがいずれも失敗

勢力の拡大
その後、遼ではしばらく内紛が続き、南下も動きもおさまっていたが、10世紀末に勢いを盛り返し、聖宗の時には黄河上流にタングート(西夏)が台頭するとそれを服属させて大夏王(宋は西夏といった)に封じ、後には友好関係を結んで宋に備えた。また東方では女真が有力となったが、遼は軍隊を派遣して制圧し、さらに朝鮮半島の高麗を服属させた。

宋との講和 澶淵の盟
周辺諸民族に対する優位な状況を実現した上で、1004年、遼の聖宗は南下して宋(北宋)の都開封に迫まり、黄河北岸の澶州で真宗の率いる宋軍と対峙した。宋は西北からのタングートの侵攻も受けて危機に陥り、講和に乗りだして同年に澶淵の盟が締結された。これは、国境はそのままとし、形式的には宋の真宗を兄、遼の聖宗を弟として友好関係を結びながら、宋が毎年銀10万両と絹20万匹を遼に贈ることを約束するという、遼にとって有利な講和条件であった。宋はこの莫大な代償によって講和を実現し、以後両者の間には120年にわたって平和がもたらされた。

李元昊

宋に対立して契丹と結び、その冊封を受ける勢力が党項のなかにおこり、現在の寧夏地方を拠点として河西に進出、シルクロードを押さえて1038年に王朝

この澶淵の盟で遼と宋の講和が成立してからの11世紀、遼は宋および西夏との交易で繁栄し、遼の全盛期となった。1922年に聖宗とその後の3代の陵墓が発見され(慶陵という)、遼の高度な文化の存在が明らかになった。

遼の二重統治体制
遼は北方民族に対しては従来からの部族制によって支配したが、華北で支配下にある漢民族に対しては中国的な州県制で統治するという二重統治体制をとった。このような、遊牧民族の統治制度を維持し、漢文化に同化せずに中国を支配した王朝を征服王朝といい、遼はその最初の例である。遼は独自の契丹文字を制定するなど、文化面でも独自性の維持に務めた。
遼の滅亡と一族の移動

宋との講和が実現し、毎年莫大な賠償金を受け取ることの続いた遼の支配層は、次第に贅沢に慣れ、頽廃が進むこととなった。その間、中国東北部で遼の支配下にあった女真は、質素な狩猟・採集生活を続けながら強固な軍事組織を作り上げ、次第に遼の圧迫に反抗するようになった。女真を率いる完顔阿骨打は1114年についに挙兵して、遼に叛旗を翻し、翌1115年に即位して金を建国、宋も遼を倒す好機と考え、金と宋の連合軍が遼を挟撃することとなった。実際には宋軍は同時に長江流域で方臘の乱という農民反乱が起こっていたために動けず、1122年に完顔阿骨打の率いる金軍が遼の都の一つ上京臨潢府と燕京を陥落させた。完顔阿骨打は翌年に死去したが第二代皇帝太宗によって、1125年に遼は完全に滅ぼされた。
遼滅亡に際して、遼の王族の一人、耶律大石の率いる一部が西方に逃れ、中央アジアトルキスタンで西遼(カラ=キタイ)を建国した。

西夏
 北方民族のひとつのチベット系タングート(党項)族の李元昊が、1038年に黄河上流のオルドス地方から西域にかけて建国。
王室の李性は唐の王室の姓をもらったもの
はじめ、契丹に服属し、夏国王に封じられ、独立してから自らは大夏と称し、中国(宋)からは西夏といわれた。現在も教科書によっては「西夏」(セイカ)と表記している場合が多いが、大夏と改める動きがある。

西夏文字を創作
 西夏は寧夏を興慶府と称してを都とした(現在の銀川市)。現在の中国の西部と西域地方を支配し、東西貿易のシルクロードの拠点をおさえて中継貿易の利益を上げ、11~12世紀に繁栄し漢字をもとにして独自の西夏文字を創作した。
 遼と宋の間にあって主として遼と友好関係にあり、宋にはしばしば侵攻して、1044年には「慶暦の和約」を結んで宋からを毎年銀や絹を受け取ることを約束させた。遼の滅亡後、東方に起こった金に次第に圧迫され、ついでモンゴル高原に起こったチンギス=ハンによって1227年に滅ぼされる。

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