リトアニア=ポーランド王国
1386年にはピアスト朝の王位継承者の断絶とともに、北方のリトアニアと連合王国となった。それはドイツ騎士団の東方進出という脅威への対応であった。このリトアニア=ポーランド王国は、14~16世紀にヤゲウォ朝のもとで1410年にはドイツ騎士団を破るなど、東欧での大国となった。両国は1569年のルブリン合同で正式に合体した。16世紀後半からはシュラフタ(貴族)による選挙王制を採る。
同君連合の成立
ポーランド王国は14世紀が最盛期であったが、1386年にカジミェシュ3世(大王)の死によって断絶したため、ピアスト朝の女王ヤドヴィカの夫として北方のリトアニア大公のヤゲウォをむかえ、その両者を対等の王とすると連合王国としてリトアニア=ポーランド王国を形成する。
ドイツ騎士団の東方進出が両国に共通の脅威だったからである。
ヤゲウォ朝の繁栄 15~16世紀
このリトアニア=ポーランド王国のヤゲウォ朝は、1410年にはタンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を破り、さらに十三年戦争といわれる1454~66年の戦いで勝利して、バルト海への出口グダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)を回復した。それによって穀物や材木の輸出が急速に延び、経済は飛躍的に発達して、14~16世紀に東ヨーロッパの強国として繁栄する。リトアニア=ポーランド王国と戦って敗れたドイツ騎士団は1525年にポーランド王国を宗主国とするプロイセン公国となった。
このころプロイセン公国領となったエルムランドで活躍していたポーランド人の医師兼天文学者が、クラクフ大学で学んだコペルニクスであった。地動説
ポーランド分割
ロシア・プロイセン・オーストリアの三国によるポーランド分割は、18世紀末に3回にわたって行われた。まず、1772年、ロシアのエカチェリーナ2世、プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世(実権はマリア=テレジア)の三者によって第1回分割が行われ、三国はそれぞれ隣接する地域を自国領に編入することをポーランドに認めさせた。
第1回分割はポーランド国内に深刻な危機感を呼び起こし、国王による改革が行われ、憲法も制定された。
第2回分割
ロシアのエカチェリーナ2世は、フランス革命が進行して西欧諸国が忙殺されている間に残りのポーランドの領有を狙い、プロイセンのフリードリヒ=ウィルヘルム2世とともに、1793年に第2回分割を承認させた。翌1794年、ポーランドのコシューシコは分割に抵抗して蜂起し、ロシア軍と戦ったが敗れた。
1795年に第3回分割が、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって行われて、ポーランドは国家としては地図上から消滅する。第一次世界大戦の終結後までの1世紀以上にわたって外国の支配下に置かれる事となった。